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イタリア 感染爆発の酸鼻――感染症が白日の下にさらしたその国家のすがたとは?〔前編〕

 2020年2月19日、イタリアで何が起きたのか? 欧州最初の集団感染が起こったドイツは、なぜ感染拡大を抑え込むことができたのか? 欧州ロックダウンを体験した在独30年のジャーナリストが、欧州各国の危機対応力を徹底分析。新型コロナウイルスの「第2波」が懸念される今、日本が選ぶべき「国のかたち」を提言します。
 当記事は、8月11日刊行のNHK出版新書『パンデミックが露わにした「国のかたち」~欧州コロナ150日間の攻防』よりその一部を抜粋し、前後編にわたってお届けするものです。今回は第一章「イタリア 感染爆発の酸鼻」より、イタリアの感染拡大の様子を紹介します。

 新型コロナウイルスが欧州で最初に多数の市民の間で広まったのは、イタリアだった。ジョンズホプキンス大学によると、二〇二〇年七月七日の時点でイタリアの死者数は三万四八六一人で、英国(四万四三〇五人)に次ぎ欧州で二番目に多い。イタリアの感染者数は約二四万人で、英国・スペインに次ぎ欧州(ロシアを除く)で三番目だ。
 イタリアのコロナ禍の震源地は北部のロンバルディア州で、六月七日までの累積感染者数は約八万六〇〇〇人。同国の感染者の約三八%、死者の約四八%が、この州の住民だった。
 ロンバルディア州の人口は約一〇〇〇万人で、イタリアで最も多い。雄大なアルプス山脈の南の、広々とした平原地帯だ。日本の米に似た短粒米も採れる、豊かな穀倉地帯である。
 大都市ミラノとその周辺に多くの企業があり、イタリア経済を引っ張る機関車と言うべき地域だ。この国の国内総生産(GDP)の約五分の一がここで生み出されている。だが同国で最初の感染者はロンバルディア州で見つかった。イタリアの稼ぎ頭と言うべきこの地域は、欧州コロナ禍の震源地となった。
 このためイタリア政府は三月八日にロンバルディア州全域と、ピエモンテ州などの一四の県を封鎖。すると北部から南部へ逃げる市民が続出したため、政府は二日後に、ロックダウンを全国に拡大した。不要不急の外出は禁止され、警察官が通行人をチェックした。三月二一日には、食品製造などを除く全ての企業が営業を禁じられた。普段は世界中からの観光客で賑わうローマやベネツィア、フィレンツェから人影が消え、ゴーストタウンのようになった。
 なぜイタリア北部で感染者が爆発的に増えたのか。その引き金は、二月にロンバルディア州で行われたあるサッカーの試合だった。

運命の試合=ベルガモ対バレンシア

 二月一九日、午後九時。ミラノの中心部から西に七キロメートルのジュゼッペ・メアッツァ競技場(通称サン・シーロ)に試合開始を告げるホイッスルの音が響き渡った。スタジアムには四万人を超える観衆が、詰めかけていた。
 欧州サッカー連盟(UEFA)が主催する欧州チャンピオンズリーグの決勝トーナメント(ラウンド16)一回戦だ。対戦したのは、イタリアのアタランタ・ベルガモと、スペインのFCバレンシアである。
 競技場の一角は、群青色と黒の縦縞のジャージ(ユニフォームのこと)やマフラーを着けた観衆で埋まっていた。群青色は、アタランタ・ベルガモのシンボルカラーだ。「アタランタ・1907」と書いた旗を振る者もいる。このチームは今から一一三年前、一九〇七年に結成されたのだ。
 ベルガモ市の人口は、約一二万人。ミラノの北西約五〇キロメートルの所にあるこの町は、同じ名前を持つベルガモ県(人口約一一一万人)の県都。日本の県庁所在地に相当する。外壁に精緻な彫刻がちりばめられた、一七世紀建設の大聖堂(ドゥオモ)など、優美な歴史的建築物が多い。中世から商業都市として栄え、今日では化学産業や建設資材の製造で知られている。
 二月一九日には、この町からなんと約四万四〇〇〇人のファンたちが、アタランタ・ベルガモとFCバレンシアの試合を見るためにミラノにやって来た。町の人口の約三分の一が応援に来たことになる。この日は水曜日で、平日だった。ベルガモっ子たちは仕事を早めに切り上げ、列車や貸し切りバスに乗って、ミラノにやって来た。一方バレンシアから は約二五〇〇人のファンがミラノにやって来た。
 当時イタリアでは、新型コロナウイルスについて大きく報道されていなかった。「中国からの観光客がこのウイルスに感染していた」というニュースが時折流れる程度で、新型肺炎が欧州でも爆発的に流行すると予想していた人はほとんどいなかった。大半の人は「新型コロナウイルスは、アジアの出来事」と思い込んでおり、自分の生活に大きな影響を与える問題とは考えていなかった。

ミラノ地下鉄内の「三つの密」

 イタリア人は、欧州の他の国民と同じく、サッカーが大好きだ。競技場での観戦には、テレビでは味わえない臨場感、同胞との一体感がある。欧州では日本よりも個人主義が強いが、サッカーの応援は別だ。大学卒のインテリ、工場労働者など階層の分け隔てなく、声が嗄れるまで応援歌を歌う。地元のチームを友人や家族と一緒に応援することで、強い連帯感と郷土意識が生まれる。あるメディアは、「サッカーはイタリア人の生命力の源泉」とすら形容した。
 地元チームの応援は、競技場に着く前から始まる。二月一九日の夕刻、ミラノ中央駅からサッカー競技場へ向かう地下鉄五号線は、両チームのファンで満員になり、立錐の余地もなかった。ファンたちは地下鉄の車両の窓ガラスも割れよとばかりに、大声でチームの応援歌やシュプレヒコールをがなり立てた。競技場に到着する前から、ビールを回し飲みする者もいた。
 この日地下鉄に乗っていた乗客の一人は、「ベルガモのファンがバレンシアのファンを抱擁して歓迎したり、ビールの回し飲みをしているのを見た」と語っている。欧州人は、日本人よりも抱擁やキス、頬の寄せ合い、握手などのスキンシップを好む。会社の同僚である男女が、恋愛関係がなくても、軽く抱き合って頬を寄せ合うのをよく見かける。
 特にイタリアやスペインなど南欧の国では、親しい男女だけではなく、男性同士が抱き合って挨拶するのも珍しくない。ドイツやオーストリアに比べても、ラテン系の国々では市民の間の「親密度」が高く、「距離」が近い(日本人である私は、欧州に三〇年住んでもこの慣習に慣れることができず、パーティーの時などの抱擁の際に何となく身体を引いてしまう)。
 日本政府は、新型コロナウイルスの拡大を防ぐ上で「密閉、密集、密接」の「三つの密」を避けることが重要だとしているが、二月一九日のミラノの地下鉄内ではこれらの悪条件が、濃縮された形で揃ってしまった。

後編(8月7日公開予定)へ続く

プロフィール
熊谷 徹(くまがい・とおる)

ジャーナリスト。1959年生まれ。早稲田大学政経学部卒業後、NHKに入局。90年に退職。以来、ミュンヘンに居を構えて取材を続ける。日独仏英の4か国語を操る。著書に『欧州分裂クライシス』(NHK出版新書)、『メルケルはなぜ「転向」したのか』(日経BP社)、『日本とドイツ ふたつの戦後』(集英社新書)『5時に帰るドイツ人、5時から頑張る日本人』(ソフトバンク新書)、『イスラエルはすごい』(新潮新書)など多数。

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