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子のない女の人生――「マイナーノートで ♯05〔不産ハラスメント〕上野千鶴子」

各方面で活躍する社会学者の上野千鶴子さんが、「考えたこと」だけでなく、「感じたこと」も綴る連載随筆。精緻な言葉選びと襞のある心象が織りなす文章は、あなたの内面を静かに波立たせます。
※#01から読む方はこちらです。

不産ハラスメント

「産後うつ」ということばがあるのだから、「未産うつ」だってあるでしょう、と若い女性が訴えていると聞いた。出産適齢期の女性が子どもを産まないと、「子どもはいつ?」「まだ産まないの?」「妊活ならいいお医者さまを紹介してあげようか?」と周囲がいちいちうるさい。ひとりで産めるものでもなし、ひとにはそれぞれ事情がある。子どもを産んだ女性の幸せそうな顔を見ていると、うつになるのだという。
「未産」は「未婚」と同じく、いずれは産むもの、結婚するもの、という前提に立っている。子を産まない女に対するこういうハラスメントをなんと名づけようか、とジャーナリストと話していて「不産ハラスメント」という名称を思いついた。「非産ハラスメント」では「悲惨」と聞こえてしまうので、やめたほうがよい。

「母になって一人前」の日本の社会では、結婚しているかどうかよりも、母であるかどうかのほうが女の価値を決める。酒井順子さんは、自分自身を含めてそういう女を「負け犬」と呼んだ。「おひとりさま」と言い換えたら、少しはラクになったが、それでも結婚・出産が「女の上がり」であることに今でも変わりはない。上がったあとにも離別・死別はあるが、非婚を含めてシングルマザーも「母であること」で「女の証明」をすませていることになる。既婚の女が子を産まないと周囲から冷たい目で見られるし、「妊活」すれば子どもをつくれるとあって「なぜ努力しないの?」と責められる。

 子を産まない女には「石女(うまずめ)」というおそろしい民俗語彙があった。子どもを産まない/産めない女は欠陥品だから、婚家から実家へ「返品」してもよかった。「嫁して三年子なきは去れ」とか、通い婚のあいだに子どもが生まれ、そのあとに嫁入りする慣習のある地方もあった。江戸時代の夫婦の10組に1組は不妊だったと言われるが、不妊の原因の半分は男性側にあることがわかったのだから、女ばかりが責められる理由はない。実際には子のない正妻が離縁されることはまれで、妾や親族の産んだ子どもを養子にするとか、子どもの再分配はひんぱんに行われた。

 だが、「子を持って知る親の恩」のように、親になることが人格的成長と結びつけられてきたために、子のない女はたんに生物学的に欠陥品であるだけでなく、人格的にも欠陥があると思われてきたふしがある。「子どもを産んではじめて人生の何たるかがわかったわ」とのたまう女性もいる。子を産まない女は人格的に未熟で成長しないと思われているようだが、子を産んだからといっていっこうに成長しない女性もいるし、それなら子育てに関わらないおおかたの男たちは未熟者のままだろう。

 今から30年以上前には、「未婚の母」はじゅうぶんなスキャンダルだったが、その当時決意して未婚の母になった女性が、こんな話をしてくれた。子どもを産んだあと、仕事先の男性が喜色満面で近づいてきて、こう言ったのだという。
「やあ、これでようやくあなたを信用できるようになりましたよ」
 それを聞いて、母になる前の自分が世間からどういう目で見られているかが逆にわかって愕然としたのだと。つまり仕事一途の未婚の女は、クライアントからも「信用ならない女」と軽く見られていたのだった。

 わたしは子どもを産まなかった女だ。このわたしも、「子どもを産んだことのないあなたに、女の何がわかるのよ」と正面から難詰されたことがある。相手をコーナー際に追いつめて、必死の反撃の末に、言ってはならないせりふをそのひとに言わせてしまったことを深く後悔したが、その反撃は狙い通りの効果をわたしにもたらした。それが彼女がわたしに対抗できる最後で最強のツールだとそのひとが感じていることが伝わっただけでなく、おそらく多くのひとびとが口には出さないがそういう目で「おひとりさま」の女を見ているだろうということもよくわかった。
 森崎和江さんの著書に、子をなすことを禁じられたもと「からゆきさん」の女性が、「子持たんものはこの世のやみじゃ」と述懐する場面がある。子どもだけが女のアイデンティティの源であり、子どもだけが人生の支えであった時代とちがって、今の「負け犬」たちは「負けた」ふりをしているが、少しも暗くはない。それにしても母にあらざれば女にあらず、という時代の呪縛は、女を長く縛ってきた。
 30代でインドをひとり旅したときには、男たちにつきまとわれて、「結婚しているか」「子どもはいるか」と問われつづけた。「いない」と答えると、ただちに「それは罪だ」という答えが返ってきた。神にそむく罪、のことらしい。子をなさない女は天にそむく罪人で、来世も浮かばれないということなのだろう。インドには代理母ビジネスに従事している女性たちがいたが、彼女たちは神の意に従っていることになるのだろうか。

 もうひとつ、子のない女がしばしば受ける非難は、子を産まない女はエゴイストというものだ。子どもを産まなかったわたしは子どもを産んだ女たちが謎で、「なぜ産んだの?」と訊いてまわったことがある。そのなかでこんな質問をしたときのことだ。
「子を産むエゴイズムと子を産まないエゴイズム、どちらが大きいと思う?」
「そりゃ子を産むほうに決まってるじゃない」と、女友だちは呵々大笑した。聡明な女性だった。

 子どもは女に生きる理由を与えてくれる。しかもとりかえのきかない絶対の信頼を寄せてくれる。小島慶子さんが、母になった経験を、自分が子どもを受け入れているというより、子どもが自分を絶対的に受け入れてくれているという事実に粛然とした、という趣旨のことを書いていたが、そのとおりだろう。わたしはその「絶対」を避けたかったのだと思う。

 それにしても。日本の社会は母性をこんなに持ち上げておきながら、母になった女にはペナルティと言ってよいほどの犠牲を押しつけつづけている。OECD諸国のなかでも「子育てを楽しめない」という女性の比率はダントツに多い。不幸な母に育てられるのは、子どものほうも不幸だということは断言できる。日本の母親が幸福になれば、母になりたいと思う女性も増えるだろうか。

(タイトルビジュアル撮影・筆者)

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プロフィール
上野千鶴子(うえの・ちづこ)

1948年、富山県生まれ。社会学者。認定NPO法人ウィメンズアクションネットワーク(WAN)理事長、東京大学名誉教授。女性学、ジェンダー研究のパイオニアであり、現在は高齢者の介護とケアの問題についても研究している。主な著書に『家父長制と資本制』(岩波現代文庫)、『スカートの下の劇場』(河出文庫)、『おひとりさまの老後』(文春文庫)、『ひとりの午後に』(NHK出版/文春文庫)、『女の子はどう生きるか 教えて、上野先生!』(岩波ジュニア新書)、『在宅ひとり死のススメ』(文春新書)などがある。

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