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「おかえり」と言われてみたくて山都町の津留へ――「熊本かわりばんこ」#18〔活字を食べて生きてきた〕田尻久子

本がひらく

 長年過ごした東京を離れ故郷・熊本に暮らしの場を移した吉本由美さんと、熊本市内で書店&雑貨カフェを営む田尻久子さん。
 本と映画、そして猫が大好きなふたりが、熊本暮らしの手ざわりを「かわりばんこ」に綴ります。 ※#01から読む方はこちらです。


活字を食べて生きてきた

 久しぶりの遠出をした。遠出と言っても熊本県内で、車で1時間ちょっとの場所。店を休めなかったので仕事が終わってから出かけて、次の日は直接出勤した。外泊をしたのはコロナ禍がはじまって以来初めてのことだ。梅雨のさなかで、いま思えば、コロナ第7波がはじまる寸前だった。少しでも時期がずれていれば行けなかっただろう。

 友人の帰省に便乗して彼女の実家に遊びに行った。やまちょうの「」という集落。町村合併するまではまちという町名だった。彼女のご両親はお二人とも本が好きで、店にも何度か来てくださっている。いつかの帰り際に、「津留においでください」と声をかけてくださったのをいいことに、一度寄らせていただいた。そのときに今度は泊まりがけでおいでと言われ、図々しく再びお邪魔することにした。

 何度も訪れた場所ではないのに、山を越え、家々が建ち並ぶ場所へと入るとなぜだか懐かしいような気持ちになる。同時に、うらやましいような気持ちもわいてくる。

 若い頃は人並みにいろんな町の花火大会を連れだって見に行ったりしたものだが、地元の人たちにまぎれて夏祭りの会場を歩いていると、自分たちだけがよそもののような気になった。もちろんそんなはずはなく他にも観光客はいるのだが、「地元の祭り」を楽しんでいる人たちをついうらやんでしまう。私は熊本市出身で、地元の祭りがないわけではないが、やあやあと声をかけあうようなこぢんまりとした祭りではないし、参加したこともほとんどない。出身地を出たことがないし、いまでは「実家」と呼べる場所もないから、「おかえり」と言われてみたいのかもしれない。そんなことをつらつらと考えていたら、つい先日、珍しく祖母が夢に出てきた。食べ物をたくさん並べて、「おもさん食べなっせ」とすすめられた。たくさん食べなさい、という意味だ。祖母はいつも、人が集まるときには食べきれないほどの料理をつくっていた。故郷と呼べる場所はあなたにだってあっただろう、と祖母に叱られているような気持ちで目が覚めた。

 津留はいわゆる限界集落で、八十代でも若手と言われるそうだ。たしかに彼女のご両親は八十代でもはつらつとしており、若々しい。山に囲まれて暮らしているから、家と店の往復ばかりしている私よりよっぽど体力があるのかもしれない。おまけに酒も私よりずっと強い。社会に対する関心も高く、彼らはたびたび抗議活動のスタンディングで先頭に立つ。抗議内容は、町で行われる日米共同訓練(オスプレイの夜間飛行や実弾射撃訓練)への反対運動だったり、ウクライナ侵略への抗議だったり。有言実行とはこのことだと頭が下がる。

 集落に入るために緑川にかかる津留橋を渡ると、たもとには以前にはなかったウクライナの旗がはためいていた。山の緑に黄色と青があざやかに映えている。戦争を乗り越えて生きてきた人々の「戦争反対」という強い意志を感じる。この光景を忘れないでおこうと写真に収めてから、家へとあがりこんだ。部屋と部屋の間の襖が開け放たれ、広々とした畳敷きの居間に晩の支度が並ぼうとしている。全然似ていない家なのに、祖父母の家を思い出す。いや、そのときは思い出さなかったかもしれないが、いまその瞬間を思い返すと、子どもの頃に夏休みを過ごした祖父母の家での記憶が重なってくる。夏休みにそこで過ごす時間は、私にとっていつも特別だった。自力で遠くに行けない子どもにとって、嫌いな学校からいちばん遠く離れられる場所だったからかもしれない。大人になってみれば、車でたった二十分程度の距離だが。

 夏になると、ふとした瞬間にその頃の記憶がよみがえる。たとえば、ツクツクボウシの鳴き声を聞いたときや、仕事帰りに道ばたで花火をする子どもたちを見かけたとき。夕立や雷鳴の音がそこへと連れていくこともある。記憶が時空を軽々と飛び越える感覚は、本を読んでいるときの感じとよく似ている。没頭すると、簡単に旅ができる。

 先にお風呂どうぞ、と言われて遠慮なく入らせていただき、上がると食卓にはごちそうが並んでいた。握り寿司は、お父さんが魚をさばき、お母さんが握ってくださったのだという。人が集まるときの定番のごちそうらしい。友人のお連れ合いやいとこも交えての宴会だ。魚はどれもつやつやとして、いかにも美味しそう。ごちそうを前に酒もすすみ、私たちはずいぶん長いこと話をしていた。社会情勢や戦争の話、ご両親の出会いの話、集落の話……過去と現在を行きつ戻りつして、話は尽きることがない。途中、わりと大きな地震があり肝を冷やした場面もあったのだが、コロナ禍をひととき忘れることができた夜だった。

 友人のお母さんは台湾生まれの引揚者だ。名前は暢子さん。小学校の教員をされていたのだが、1970年代には部落解放運動と出会い、識字学級で文字を教えていた(暢子さんは「ともに学んでいた」とおっしゃる)経験をも併せ持つ。識字学級に来ていたのは、おもに文字を持たない女性たち。彼女たちが奪われてきた言葉を取り戻す手助けをされていたのだ。識字学級へは仕事が終わった後に行くので帰りが遅かったそうで、「道の暗かけん、送り迎えばしよった」とお父さんの益行さんがおっしゃっていた。そういった話は遊びに行く以前から聞いていたので、前に文章に書かせていただいたこともある。お礼を兼ねて掲載誌を送ると、美しい文字の手紙が送られてきて、識字学級での思い出にも少しふれてあった。

 みんなで話しているときに、学校が嫌いだったとおっしゃったので、ではなぜ学校の先生になったのかと聞いてみたら、「ごはんを食べなくちゃいけないから」とおっしゃった。そのときは笑って話されたが、台湾での余裕のあった暮らしが戦争で突然に打ち切られ、引き揚げた先で衣食住すべてがどん底に落とされたことは、いま思えば、自立するのにとても良かったのだと思う、といただいた手紙には書かれていた。「自分の口は自分で養うということが当然のこととして育ちました」とも、書かれていた。暢子さんは益行さんのことを「連れ合い」とおっしゃる。私も「嫁」や「主人」といった言葉は普段から使わないようにしているが、八十代でそうおっしゃる人にはあまり会ったことがない。熊本のような地方都市では特にそうなのかもしれない。出会ったのは最近だけれども、彼女のような先人たちがいまの私をつくっている。ありがたいと思う。

 台湾から引き揚げたときの話が印象的だった。2カ月ほど過ごした高雄の収容所から引き揚げ船に乗ったとき、暢子さんは10歳。浅瀬を行くと機雷がそこら中に落ちているから、一度太平洋に出て、1週間かけて帰ってきたのだという。「黒潮って黒いんだと思った」とおっしゃった。「リバティ」という名前の貨物船の船底に詰め込まれ、ずっと弟さんをおんぶしていたそうだ。船の中の食べ物は臭くて臭くて、みんなそこら中でげえげえ吐いた。広島の大竹市に着くと、海岸の松の木がきれいだったという。その光景が暢子さんの脳裏に浮かんでいるように見えた。そこで手続きを待つのに二晩か三晩かかり、食べ物はカンパンしかもらえないので、みんな潮干狩りをして、空き缶に海水と一緒に入れて火にかけて食べた。「あれ、美味しかった。あれで、みんな生き返った」と記憶がよみがえったようにおっしゃる。

 貨物船から降りたときの話は、暢子さんの原点を見るようだった。とても背の高い貨物船からは長々とタラップが下ろされている。そこを降りるときに周囲にいる人たちに笑われたそうだ。そのときの気持ちを追いかけるように話してくださった。

「高ーい貨物船だけん、タラップがずーーっと、長々とはしごが下りるわけよ。で、そこを降りらにゃんとたい。あたし、弟ばおんぶしとったもん。あたしは降りようとしたったい。だって、はしごぐらい降りるとが当たり前て……。そしたら船員さんがね、ぜったい降ろさせんでね、船員さんが私をおんぶしたけんね、私は弟をおんぶしとるけん、そっば(それを)見てね、先に降りた人がみんな笑ったけんね、私はたいーがはるかいた(とても怒った)。みんな引き揚げてきて、やっと笑い声が出たんだろうけど、私は笑われたと思った」

 客観的に見るとおかしかったろうといまでは思う、と笑っておっしゃった。親亀が子亀を乗せて、さらにその上に孫亀が乗っているようなその光景を見て、周囲の人たちは微笑ましく、長く続いていた緊張がほどけた瞬間だったのだろう。でも、10歳で戦争を経験して長旅を経て、弟を守るようにして帰ってきた自立心の強い彼女は、大人を頼るよりも、自分の力でタラップを降りたいと思ったのだ。それが当然だと。

 台湾から帰ってきた後に入った学校で、暢子さんはいじめられた。引揚者は他におらず、ハイカラな服を着て、当時は標準語を話していた彼女は、学校ではとても目立った。取り囲まれて、頭の先からつま先まで見られた。まるで別の生き物のように扱われた。はじめて学校に行った日に着ていたワンピースは二度と着ていかなかったという。あれはお米に換えられたと思う、とおっしゃっていた。

 食べ物がない、友達からいじめられる、先生ににらまれる。そういうことはすべて、本の世界で生きていくことでやり過ごしてきたのだと暢子さんは言う。「腹がへったときも活字を食べて生きてきました」と少しおどけたようにおっしゃった。引揚者だと差別された経験が、のちに識字学習へと彼女を向かわせた部分もあったのかもしれない。

 状況はまったく違うが、私も活字を食べて生きてきた。本を読むことはあなたにとって何ですか? と問われると、食事とあまり変わらないとなかば本気で答える。もちろん、本を読まなくても体は維持できるだろうが、読めないとすごく辛いのだ。読むことで考え、読むことで疲れを取り、読むことで満足を得てきた。読めなかったら耐えられない時間があった。暢子さんの話を聞きながら、僭越ながら同じです、と心の中でつぶやいていた。

 彼女は教職を退いてから、誘われて句会に入ったそうだ。コロナ禍でいろんなことが中止になり時間ができたので、句文集をまとめたのだと送ってくださった。暢子さんと益行さんの共著で、書名は『たにの空』。津留は谷間にある村だ。益行さんの序文からはじまり、二人のなれそめが書いてある。訪れたときにも聞いた話だ。益行さんが任せられた村の雑貨店の前を、村の教師として新規採用になった暢子さんが通るようになる。彼は、ロバート・ブラウニングの詩劇「ピッパが通る」の中の一篇、「春のあした」を心の中でそらんじる。「時は春、日はあした」と、彼女をピッパになぞらえて見ていた。そして、いつしか気になる人になっていく。そんなあるとき、下校の路上で彼女がアグネス・スメドレーの『偉大なる道』を貸してくれた。アメリカの女性ジャーナリストの著作で、中国人民解放軍の朱徳将軍伝だ。「以来われわれ二人は、人生を共に歩くことになった」と書かれている。

 みんなで呑みながら二人の出会いの話をしていたとき、暢子さんは笑いながら「本読むと誰かに貸さんと頭がうずきよった」と言っていた。「身も蓋もにゃーこつば言うな」と益行さんも笑っていた。長く連れ添っている二人の句文集に連なった名前は、暢子さんの名前が先にある。結ばれるべくして結ばれた二人なのだとそれを見て思った。

 暢子さんが気に入っているという、彼女の詠んだ句をひとつ紹介したい。私も好きな句だ。暢子さんの姿がありありと見えるから。

「青空へシャツ干し独りのメーデー歌」  
(『峡の空』より)

(次回は吉本由美さんが綴ります)

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プロフィール

田尻久子(たじり・ひさこ)
1969年、熊本市生まれ。「橙書店 オレンジ」店主。会社勤めを経て2001年、熊本市内に雑貨と喫茶の店「orange」を開業。08年、隣の空き店舗を借り増しして「橙書店」を開く。16年より、渡辺京二氏の呼びかけで創刊した文芸誌『アルテリ』(年2回刊)の発行・責任編集をつとめ、同誌をはじめ各紙誌に文章を寄せている。17年、第39回サントリー地域文化賞受賞。著書に『猫はしっぽでしゃべる』(ナナロク社)、『みぎわに立って』(里山社)、『橙書店にて』(20年、熊日出版文化賞/晶文社)、『橙が実るまで』(写真・川内倫子/スイッチ・パブリッシング)がある。

吉本由美(よしもと・ゆみ)
1948年、熊本市生まれ。文筆家。インテリア・スタイリストとして「アンアン」「クロワッサン」「オリーブ」などで活躍後、執筆活動に専念。著書に『吉本由美〔一人暮らし術〕ネコはいいなア』(晶文社)、『じぶんのスタイル』『かっこよく年をとりたい』(共に筑摩書房)、『列車三昧 日本のはしっこへ行ってみた』(講談社+α文庫)、『みちくさの名前。~雑草図鑑』(NHK出版)、『イン・マイ・ライフ』(亜紀書房)、『東京するめクラブ 地球のはぐれ方』(村上春樹、都築響一両氏との共著/文春文庫)など多数。

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