哲学ディベート――人生の論点【第6回】なぜルッキズムに陥るのか?
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哲学ディベート――人生の論点【第6回】なぜルッキズムに陥るのか?

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●「哲学ディベート」は、相手を論破し説得するための競技ディベートとは異なり、多彩な論点を浮かび上がらせて、自分が何に価値を置いているのかを見極める思考方法です。
●本連載では「哲学ディベート」を発案した哲学者・高橋昌一郎が、実際に誰もが遭遇する可能性のあるさまざまな「人生の論点」に迫ります。
●舞台は大学の研究室。もし読者が大学生だったら、発表者のどの論点に賛成しますか、あるいは反対しますか? これまで気付かなかった新たな発想を発見するためにも、ぜひ視界を広げて、一緒に考えてください!
※第1回から読む方はこちらです。

経済学部C 前回のゼミで皆さんの意見を伺って、大学在籍中にプチ整形やメディカル・アートメイクに踏み切るべきか、かなり悩みました。
 ちょうど先日、内定を頂戴した航空会社の懇親会があり、現役CAの先輩と話す機会があったので、思い切って私の悩みを相談してみました。
 そもそもCAは容姿を整えるべきであるということは、人事評価の対象にもなっているそうですから、「見た目」が大切であることはハッキリしています。ただし、そこで「見た目」というのは、あくまで「清潔感」や「品性」であって、派手な印象は避ける方がよいとアドバイスをいただきました。
 日本の航空会社でCAにタトゥーが禁止されていることは以前から知っていましたが、メイクの方法にしても、「優しい印象を与えるメイク」が望ましく、「流行メイク」は禁止されているそうです。搭乗時には「つけまつ毛」や「まつ毛エクステンション」も禁止されているそうで、想像していた以上に派手なメイクがタブー視されていることがわかりました。
 とくに印象に残ったのは、「私達は、あくまでお客様があっての私達なのだから、お客様よりも派手な印象を与えることや、お客様よりも華美な時計や装飾品を身に付けることは、慎まなければね」という先輩の言葉です。
「どうしても時間を節約したいのなら、眉毛のメディカル・アートメイクくらいはありかもね」と言われましたが、実際に眉毛にメディカル・アートメイクを施術しているのは、眉毛が薄くなった年長者のCAだけで、私のような新入のCAが施術しているのは見たことがないそうです。
 会社から「訓練開始までに読むように」と渡された「お客様の声」という小冊子があるのですが、先輩からそれをよく読むように言われました。その小冊子には、搭乗後のお客様から寄せられた声が引用されています。
 ある便に搭乗したお客様が「パニック障害」であることをCAに伝えたところ、それが機長に伝わり、機長から「自分もジェットコースターは苦手です。揺れないように操縦しますから、ご安心ください」という機内アナウンスがありました。お客様は、その配慮に感激されたそうです。
 出産直後から集中治療室に入っているお孫さんを見舞うために、老夫婦が飛行中に「折鶴」を折っていた話もあります。事情を知った機内のCA全員が一緒に折鶴を折り、お見舞いメッセージを添えて手渡したところ、ご夫婦が感動してくださったそうです。
 着陸後、お客様が搭乗口に向かって歩いていると、CAが追いかけてきました。そのお客様の持っていた土産袋が傷んで破れかけていたので、新しい紙袋を持ってきてくれたそうで、その配慮に感謝の声が寄せられています。
 この小冊子の表紙には、「100人のお客様」がいれば「100通りの想い」があり、その「想い」は常に変化するため「正解はありません」と書いてあります。しかし、その「想い」に応えることは「難しいこと」でも「特別なこと」でもなく、「一生懸命さ、ひたむきさは必ずお客さまに伝わります」とありました。
 改めて考えてみると、私のように入社前の人間が、プチ整形やメディカル・アートメイクに拘ること自体、かなり「ルッキズム」に偏っていたのではないかと、ちょっと反省しました。やはり私は、外見に拘るよりも、内面からお客様の想いに応えられるようなCAになりたいので、プチ整形もメディカル・アートメイクも、結局、全部やめることにしました!

教授 なるほど。社会学者の山口誠氏は、CAを「おもてなしの達人」と位置付け、その「達人」になることを「究極の任務」とみなしていてね……。
 彼は、その小冊子に書いてあるような「対価を求めない無償奉仕、終わりなき自己研鑽、そして伝統や教養に裏打ちされた集合的で審美的な品格への同化、という三つを特徴」とする労働を「品格労働」と呼んでいる。
 つまり、「お金のためでなく、他人のためでもなく、自分を磨くために伝統の『おもてなし』を実践し、その先に日本人としても品格を共有する」のが品格労働であり、CAこそがその「達人」だという考え方だ。
 日本の大手航空会社は、入社前からそのような小冊子を通して「品格労働」を教育しているわけだ。いつの間にか、Cさんも立派なCAの卵になってきたのかもしれないね。
 ところで、今の話に出てきた「ルッキズム(lookism)」とは「外見(looks)」で人を差別することで、近年、ジェンダー論やメディア論などの多彩な分野で議論されるようになってきた。
 この言葉は、場合によっては「外見至上主義」と訳されることからもわかるように、「身体的に魅力的」であることを何よりも優先し、「身体的に魅力的」でないとみなされる人々を差別的に扱う態度を意味する。
 メディア文化論を専門とする大妻女子大学教授の田中東子氏によれば、日常会話やネットに書き込まれる次のようなコメントが「ルッキズム」に相当する。
「あいつブスだよな」「お前、なんで髪伸ばして女らしくできないんだよ」「太りすぎだ」「服がダサい」「その顔で良く自撮りを晒せるな」「あのアイドル、劣化したよな」「ババア」「胸垂れてきたな」「太い足」「美人のフェミニストなら話を聞いてやるよ」……。
 個人の主観的判断ばかりでなく、「ルッキズム」は経済活動にも深く関係している。君たちの周囲の広告を見渡してみれば、どれだけ「ルックス」を改善するための美容やダイエットに関する製品やサービスで溢れているか、よくわかるだろう。
 田中氏によれば、「容姿や体形を卑下したり、体毛を醜いものとして嫌悪したりするなど、今日の広告は特定の容姿や特定の体形以外を恥ずかしいものとして貶め、身体と美をめぐる脅迫と恫喝によってボディワークへと私たちを駆り立てる」というわけだ。
 その意味では、現代社会の「ルッキズム」は一種の「全体主義的な洗脳」を暗示しているとも考えられるだろう。

文学部A 百人一首の「花の色は 移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」を詠んだのは、「絶世の美女」として知られる小野小町です。
 平安時代には、顔は大きめ、しもぶくれで、「引目」と呼ばれる細い眼、低くて小さい鼻、おちょぼ口が美しいとみなされていましたから、小野小町の顔は、典型的な「オタフク顔」だったはずです。
 当時は飢饉もあり、裕福でなければ満足な食事もとれなかったため、豊かさの象徴として、ふくよかな体形が好まれました。さらに美白肌と長い黒髪、それに和歌を詠む素養が必要で、それらを兼ね備えていた小野小町が「絶世の美女」と呼ばれたわけです。
 もし現代社会で「美人」と呼ばれる女性が平安時代にタイムスリップしたとして、顔が小さく痩せすぎで、流行メイクをしている女性だったら、つけまつ毛やアイシャドウで強調された両目や濃いチーク、光沢のあるリップなどから「化け物」と呼ばれるかもしれません。
 つまり、「美女」という言葉は、時代背景によって移り変わる儚い感性によるものに過ぎず、人は「美醜」について思い悩んでいるうちに、小町が詠っているように、いつの間にか年老いていくものなのではないでしょうか。
 私が小学生の頃、肌の色が白すぎて、同級生から「死んでいる人みたい」と言われて、すごく傷ついた経験があります。後でわかったことですが、私は陰で「お化け」と呼ばれていたそうで、それを知った時には、もっと深く傷つきました。
 さらに、追い討ちをかけるように、朝のホームルームで私の顔を見た先生に、「お前、体調不良じゃないのか? 保健室に行くか?」と言われたことがあって、もちろん先生に悪気があったわけではないと思うのですが、その先生の心配そうな声を聞いてクラスの男の子たちが爆笑したので、本当に悲しかったです。
 ところが、中学から高校時代になると、「肌の色が本当に透き通って綺麗」とか、「どんな美白の手入れをしているの?」などと聞かれるようになり、同じ私の肌が、まったく違う価値観で評価されることに気付きました。
 現代と平安時代の相違だけではなく、私の短い人生の経験だけから考えても、人の評価は真逆に変わるわけです。ですから、私は「ルッキズム」のような「幻影」を気にする必要はないと思います。

法学部B あははは、たしかにA子さんは美白だよね。
 実は、僕の母も本来は色白だったのに、母が若い頃には「日焼けした小麦色の肌」が人気だったそうで、日焼けサロンに行って、わざわざ肌を焼いていたそうです。そのおかげで、今になって身体のあちこちにシミが出てきて、「若気の至り」だと嘆いていますけど。
 そもそも、「小麦色」がよいとか「美白」がよいとかといった流行は、アイドルや美容業界が生み出す販売戦略でしょう。したがって、とくに女性たちは、そういう「流行」に踊らされること自体がバカげていると自覚することの方が大切だと思います。
 ただし、「ルッキズム」について、僕は一概に「悪」だと断定はできないと思います。というのは、人を「外見だけ」で判断してしまうことは明らかに間違いですが、「外見を参考に」判断するのは、当然のことだからです。
 仮に外見が不潔だったり、挙動が変だったり、いわゆる不審な人々を僕らは敬遠しますが、それは自分の身を守るために当然の判断だと思います。駅や電車で挙動不審な人物がいたら、近づかないのが正当な判断でしょう。
「外国法」で学んだ内容ですが、アメリカ合衆国では、1867年にカリフォルニア州サンフランシスコ市で「醜い法律(Ugly Laws)」と呼ばれる条例が制定されています。
 この条例は、病気や事故で「醜い容姿」となり、一般大衆に不信感や不安感を抱かせる「特定の人」が公共の場所に現れることを禁止するものです。
 1881年にイリノイ州シカゴ市で制定された同種の条例は、より明確に「病気、不具、切断、または何らかの意味で変形した見苦しく胸が悪くなるような対象(”diseased, maimed, mutilated, or in any way deformed, so as to be an unsightly or disgusting object”)」と「特定の人」を定義しています。
 アメリカの「南北戦争」は4年以上にわたる大激戦で、1865年の戦争終結までに南北両軍合わせて50万人以上のアメリカ人が戦死したとみなされています。市民を含めた負傷者数は、その何倍にもなったはずです。
 そこで大きな傷を負った「路上物乞い」が街に集まり、周囲を脅かす存在になったので、「醜い法律」が制定されたわけです。ところが、1881年のシカゴ条例以降は、物乞いばかりでなく、障害者、移民、貧困者やホームレスなどにも適用されるようになりました。この種の条例は、ニューオリンズやポートランドのような大都市でも次々と制定されました。
 つまり、かつては「ルッキズム」そのもののような法律があったわけです。これらの「醜い法律」は、公民権運動以降の1970年代に消滅し、今では逆に、「ルッキズム」を裁く法律が世界的に増えています。たとえば、ミシガン州では「容姿(身長・体重)」で雇用機会に差別があってはならないと条例で定めています。

理学部D 僕は、情報処理の観点から考えてみました。そもそも、ヒトが外界から受ける情報の8割は「視覚」、その次が「聴覚」によるものですから、情報の大部分は視聴覚から与えられているといっても過言ではありません。
 進化論的に考えてみれば、「見る」と「聞く」という操作は、一定の距離を置いて対象を認知するという意味で、自己の安全を瞬間的に脅かすものではなかったわけです。これらの情報は、最初に脳の新皮質に伝わって「客観的」に捉えることができたため、そこから飛躍的に高度な知性が生じたと考えられています。
 一方、「嗅覚・味覚・触覚」に与えられる情報は、古い脳辺縁系に直接入力されます。刺激臭を嗅いで顔をそむける、腐敗した食物を口に入れて吐き出す、熱いものに触れて手を引っ込めるといった操作は、瞬間的な無条件反射として生じます。これらは、新皮質よりも先に「主観的」な感情を呼び覚ます原始的な運動で、他の動物にも共通した反応といえます。
 要するに、ヒトは高度な知性を備えた生物に進化しましたが、その情報の8割は視覚に頼っているわけです。したがって、「ルッキズム」のような傾向は、ヒトが存在する限り永遠に続くはずです。
 僕らが初対面の人と会う際、相手の顔全体における目鼻口耳の形や配置、頭部のバランスや髪、肌の色や張り具合、手足のバランスや姿勢などを視覚から受け取り、脳が過去に蓄積してきたデータと比較して総合的に「美醜」を判断します。
 よく就職活動で「顔採用」などと言われますが、これは必ずしも「差別」という意味ばかりではなく、会社の人事担当者は長年の採用経験から、どのような「顔」が自社に適応しているか、どのような「顔」が入社後に不適応だったか、脳内で総合的に判断している可能性があります。
 したがって、問題となるのは「ルッキズム」そのものではなく、それを表現する「言葉」にあるというのが、僕の結論です。
 たとえば、さきほどのA子さんの例で考えてみると、A子さんの肌の色が白いという事実に対して、それを「死んでいる人みたい」や「お化け」などという言葉で表現することに問題があるわけです。
 もし小学校の先生が「A子さんの肌が真っ白なのは、他の人にはない一つの個性なんだよ」と言っていたら、子どもたちも笑わずに納得したはずです。もし幼い頃から、どんな「ルックス」も一つの個性なんだよ、という教育がなされていれば、現在の「ルッキズム」における「差別」の問題は解消されていくのではないでしょうか。
 結局、「差別」を生み出すのは「言葉」だということです。ネットに「ルックス」に関する誹謗中傷を書き込まれて自殺したアイドルや芸能人も、結果的には「言葉」の暴力によって追い詰められています。
「最近、ふっくらしてきたよね」という「言葉」に傷ついて、ダイエット依存から拒食症になってしまった女性のニュースを見たことがあります。もちろん「ルッキズム」の対象は女性ばかりでなく、男性の外見をバカにするような「言葉」も数多く存在します。
 ですから、「ルッキズム」についても「ヘイトスピーチ解消法」のような規制を考えるべきかもしれません。

医学部E イラン出身の医学部の留学生から聞いた話ですが、イラン人の女性は鼻が高すぎるので、鼻骨を削って鼻を低くする整形が大流行しているそうです。その手術費用は先進国並みで、イラン人の平均年収に相当しますから、鼻を整形できるのは、非常に裕福な家庭の女性に限られています。
 そこで、実際には整形していないにもかかわらず、鼻にガーゼを貼って、整形後のように見せかける若い女性のファッションが流行しているそうです。冗談かと思ってネットで調べてみたら、本当に鼻にガーゼを付けた若いイラン人女性の画像がたくさん出てきて、ビックリしました。
 これは先生の「比較文化論」で紹介された話ですが、エチオピアの南西部に居住する「ムルシ族」の女性は、唇が大きいほど美人とみなされます。そこで結婚前の女性は、唇に穴を空けて「デヴィニヤ」と呼ばれる皿を嵌め込みます。
 この皿は、最初は直径1センチくらいから徐々に大きな皿に替えて、最終的には直径20センチを超えるサイズにする女性もいます。また、耳たぶも大きい方が美人とみなされるため、両耳の耳たぶに穴を空けて、唇と同じように「デヴィニヤ」を嵌め込む女性もいます。
 ムルシ族の男性は、唇や耳の穴が大きくなければ女性に魅力を感じません。幼い頃からの「美醜」に関するインプットがどれだけ文化性に依存しているのか、思い知らされました。
 唐から清にかけての中国では、小さい足の女性が美しいとみなされ、1,000年近くに渡って「纏足(てんそく)」の俗習が続きました。当時の中国の母親はたちは、娘が3歳になると、両足の親指以外の4本の指を内側に曲げて木綿の布できつく縛って、発育を抑制しました。
 娘は苦痛で夜も眠れなかったそうですが、どんなに泣いても喚いても、3日に一度、消毒して縛り直すとき以外は緩めることなく、縛り続けます。すると、約2年後には足の骨が変形して、ハイヒールを履いたように爪先立ちで歩くようになります。
「纏足」女性の爪先立ちの歩き方は、性的に魅力的だとみなされ、走ることもできないため、どこへも逃げることができません。当時はこれが、男性による女性支配のために非常に都合がよい習慣でした。女性の足のサイズは、成人で10センチ程度が最も美しい「三寸金蓮(さんずんこんれん)」と呼ばれ、そのような足の女性こそが、良家へ嫁ぐことができたわけです。
 ここで注意してほしいのは、「纏足」の習慣のなかった満州族の清王朝が「纏足禁止令」を出したにもかかわらず、中国の女性たち自身、なかなかこの習慣を止めようとはしなかった点です。なぜなら、彼女たちの脳内にも、「纏足」こそが「美人」の証だとインプットされていたからです。
 アフリカ北西部のモーリタニアでは、今でも太った女性ほど美しいとされています。この国は、全土がサハラ砂漠に覆われて農耕に適さず、国民の大半が遊牧民で、伝統的に太った女性こそが豊穣の美として崇められてきました。
 この太った女性というのが、ルノワールの絵に描かれているような、ふくよかな女性というレベルではなくて、体重100キロを超えて150キロ近くの肥満女性こそが美人とみなされるから、尋常ではありません。
 モーリタニアでは、女の子が生まれると、将来よい花嫁になれるように、両親が強制的に肥満化させます。5歳になると、脂肪を豊富に含むラクダの乳に砂糖を混ぜて、毎日飲まされるようになります。その量は日増しに多くなり、19歳の頃には、1日に20リットル近く、1,600キロカロリー相当を飲まされるそうです。
 内臓破裂で亡くなった少女の例も報告されていますが、それでも痩せた女性は貧困の象徴とみなされて結婚できないため、その俗習は今も続いています。
 他にも世界各地の女性が、その文化圏において「女性は美しくなければならない」という根本理念に組み込まれて、想像を絶するようなさまざまな身体改造を行っています。アムネスティ・インターナショナルをはじめとする国際人権団体が告発を続けていますが、その国の文化や伝統という名のもとに、なかなか改善が見られません。
 僕は、「ルッキズム」の根底にあるのは、やはり歴史的に考えても「女性差別」の問題だと思います。前回のゼミでも触れましたが、とくに形成外科の美容処置数が世界で突出しているアメリカやブラジルや日本では、外見で人を判断する「ルッキズム」が流行しすぎていると思います。
 ミス・ミスターコンテストのように、外見を大きな要因として順位付けするようなコンテストも、社会的ルッキズムを助長しているのではないでしょうか。僕は「人種差別」と同じように「女性差別」を撤廃するための第一歩として、「ルッキズム」のような発想そのものを根底から捨て去る必要があると思います。

教授 「なぜルッキズムに陥るのか?」という問題から「言語」や「ジェンダー」や「差別」に関する哲学的議論が抽出されました。本当に難しい問題だと思いますが、このディベートを契機として、改めて自分自身で考えてみてください。

(続く)

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参考文献
Susan Schweik and Robert A.Wilson, “Ugly Laws” https://www.researchgate.net/publication/306365394_Ugly_Laws
高橋昌一郎『感性の限界』講談社現代新書、2012
田中東子「娯楽と恥辱とルッキズム」『現代思想』第49巻第13号、2021
山口誠『客室乗務員の誕生』岩波新書、2020

題字・イラスト:KAZMOIS

プロフィール
高橋昌一郎(たかはし・しょういちろう)

國學院大學教授。専門は論理学・科学哲学。著書は『理性の限界』『知性の限界』『感性の限界』『フォン・ノイマンの哲学』『ゲーデルの哲学』『20世紀論争史』『自己分析論』『反オカルト論』『愛の論理学』『東大生の論理』『小林秀雄の哲学』『哲学ディベート』『ノイマン・ゲーデル・チューリング』『科学哲学のすすめ』など、多数。

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