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ある年末の思い出――料理と食を通して日常を考察するエッセイ「とりあえずお湯わかせ」柚木麻子

『ランチのアッコちゃん』『BUTTER』『マジカルグランマ』など、数々のヒット作でおなじみの小説家、柚木麻子さん。今月は、ある冬の日の悲しくも心温まるエピソードをお送りします。
※当記事は連載の第9回です。最初から読む方はこちらです。

#9 クリスマスの試食販売

 昨日、この先、小説を書き続けられるか心配になって、何か今のうちに副業を確保するべきではないか、とネットを徘徊していた。勤め人だったのはもう十年以上前のこと。今のコンビニやスーパーのアルバイトはやることが多く、スピードも要求され、自分につとまるとはとても思えない。かといって人と顔を合わせない単純作業だと、作家業の行き詰まり感と酷似していて本末転倒という気もする。やっぱり、あれしかないの。そうだ。私は大学生やフリーター時代、スーパーマーケットの試食販売で売りまくっていたのである。カップスープにインスタントココア、新発売のクッキーや冷凍食品。身一つで指定されたスーパーマーケットに出向き、メーカーさんから配送されたホットプレートや調理器具をバックヤードから探し出し、売り場にスペースを確保。お客様に一口大の試食を配り、実売に結びつける。ありとあらゆる職場でデキないやつの烙印を押されてきた私だが、よく通る声、ほがらかな態度、次から次へと出てくる美味しそうなフレーズに誰もが足を留めた。調理には自信があるので、試食を見栄えよく美味しく作ることも得意だった。終了時刻が来たらブースを畳み、メーカーさんに資材を送り返し、さっさと帰れる。一度来たスーパーには二度と訪れることがないのがほとんどで、人間関係が全部その場かぎりなところもとても好きだった。
 コロナ対策で全然募集がないが、これなら四十代の今もやれるかもしれない。輝かしい記憶ばっかりだ。しかし、大学四年の十二月、実はある忘れられない試食販売を経験している。その前夜、もともと不仲で口をきくことがほとんどなかった両親がついに話し合いに至り、離婚が決定的なものとなった。私は大泣きし、一晩眠れなかった。その時、就職の内定は出ていて自立の目処が立っていた分、これでもう来年、自分の帰ってくる家はなくなるのだという喪失感で胸が押しつぶされそうだった。そういう時は休めばいいのに、それでも私は号泣しながら、バスと電車を乗り継ぎ、その日指定されたスーパーマーケットにたどり着いた。青果フロアの主任は真っ赤な顔でオイオイ泣きながらやってきた私を見てギョッとし、「歳末セールは笑顔が命なのに、なんてツラだ」と激怒した。泣き止もうと頑張れば頑張るほど、涙はポロポロ出てくる。おまけに、その日私が売らねばならないのは、今こうして書いていても本当に不思議なのだが、ネットに入った冷凍みかんだった。クリスマスディスプレイできらびやかなスーパーマーケットの青果売り場、主役はあきらかにイチゴのパック。そんな場所でカチカチに凍ったみかんなんて売れるわけがない。おまけに両親は離婚するのだ。指をかじかませて、硬い皮をむき、小分けしたみかんの房を紙皿に並べながら、私は声をあげて泣き続けた。その都度、主任が飛んできて、きつく叱られた。その時である。「あら、あなた、どうしたの」シニア女性に呼び止められた。隣には孫らしき女の子もいて不思議そうにこちらを見上げている。暖かそうないでたち、レジカゴはお料理の素材でいっぱい。生クリームと鶏肉があるからグラタンかシチューかな? きっと幸せな家庭なんだろう、と勝手に想像を膨らませたら、また涙が出てきた。彼女は私のかじかんだ指と赤い目を交互に見て、こう言った。「かわいそうに。こんな寒い季節に冷凍みかんなんか売らされているのね。私が買ってあげるわ」その一言で、別の客が振り返った。気付くと、私の周囲には人だかりができていた。私は寒い季節に冷凍みかんを命令で売らされて号泣しているかわいそうな女の子ということになり、みんな「泣かないで」「元気出して」と、どんどんみかんを買ってくれたのだ。もちろん、三十分置きに、フロアの主任が飛んできて「お前いい加減にしろよ!」と叱責されたが、そのたびに「まあ、かわいそうに。冷凍みかんなんて売れるわけないのに、あの人があなたに無理難題を押し付けているのね」と同情が集まり、みかんは飛ぶように売れていく。
 夕方になる頃には、ようやく私の涙も引っ込み、冷凍みかんはすべて売り切れた。私がみかんの皮や網を拾い集めていたら、メーカーの営業の人がやってきて「この時期、これだけ売った人はあなたが初めてだ。学生さん? 連絡をください」と感心した顔で名刺をくれた。「さようなら」と声をかけてもフロアの主任は無言だった。
 かじかんだ指をこすりあわせながら、バスに乗り込んだ。遠ざかっていく見慣れぬ住宅地を眺めながら、私はふいにその後の自分の人生を予想した。早晩親は別れ、私の実家はなくなるだろう。でも、私は泣きながらでも心がメチャクチャでも、とりあえずその日の自分の居場所に立ち続ける人生を送るだろう。そして、行く先々で味方を作って、ささやかながらも誰もしたことがない偉業を成し遂げ続けるだろう。それから二十年。その予感はすべて的中した。もうちょっと作家一本で頑張ろうと思う。

FIN

題字・イラスト:朝野ペコ

明治から戦後まで、女子教育の礎を築いた河井道を描いた大河小説!
柚木さんの母校・恵泉女学園中学・高等学校の創設者・河井道。津田梅子のもとで学び、留学を経て、生涯を女子の教育に尽力した人物と、彼女を慕い、力を合わせて道を切り開いた女性たちのシスターフッドを描いた大河小説『らんたん』が好評発売中! 冬の夜長にぴったりの1冊です。

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プロフィール
柚木麻子(ゆずき・あさこ)
1981年、東京都生まれ。2008年「フォーゲットミー、ノットブルー」でオール讀物新人賞を受賞し、2010年に同作を含む『終点のあの子』でデビュー。 2015年『ナイルパーチの女子会』で山本周五郎賞を受賞。『ランチのアッコちゃん』『伊藤くんA to E』『BUTTER』『マジカルグランマ』など著書多数。最新長編『らんたん』(小学館)が好評発売中。

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