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「思考入門 “よく考える” ための教室」第2回 〔論理的ってどういうこと? ──世界でいちばんシンプルな定義〕 戸田山和久(文と絵)

はいこんにちは。お待ちかね、思考入門の第2回ですよ。今回ハッキリいって内容オ・ト・クよ。みなさんお父さんお母さんに「ちっとは論理的に考えなさい!」なんてよくオコラれますね。でも「論理的」何のことでしょう? きっとお父さんお母さん答えられませんよ。第2回目では、論理的どういうことかをおサルさんでもわかるように教えてくれます。楽しみだねー。でもその前に戸田山さん、論理的に考えるとなんでオ・ト・クなのかも情熱的に語っとります。上でグルグル回っとるこのトボケたおじさん、熱いアツーい人ですね。はい、今回も原稿と絵はギリギリでした。お外は暑いのに、関係者一同キモを冷やしたそうですよ。熱いけどコワ~い人ですねえ。はい、時間きました。それでは今回も楽しんでくださいね。さよならさよならサヨナラ。

「考える」ことができてラッキー!

 動物だって考えることができる。でも、ヒトの考えは動物よりちょいと上等だ、ということを前回お話しした。たとえば、ヒトの考えはただ一通りの使い道に直結してはいない。同じ考えを、いろんな行動に使うことができるし、何よりも「何もしないでとりあえず考えるだけ」ということができる。そして、ヒトはいま目の前にないものについても考えられる。だからヒトは希望をもつことができる。逆に、将来を不安に思うこともできる。未来のよいこと、悪いこと、どっちもいま起きていることではないよね。
 考えることとやることの間に時間差がもてるという第一の特徴と、いまその場にないことがらについて考えられるという第二の特徴を合わせると、「やる前に考える」ということができるようになる。シミュレーションだ。お米5キロとネギと豆腐を買ってきて、と言われたとしよう。スーパーの入り口でカゴをとりながらまずは考える。お米を最初にカゴに入れちゃうと、重いカゴを持って野菜売り場や豆腐売り場までいかないといけない。お米はレジのそばにある(たいていのスーパーではそうなってるよね。理由は分かるだろ?)。よし、お米は最後にしよう。まずネギを買って、豆腐、お米の順にすれば最短距離で、しかも重いものをもってうろつかなくてすむ。よし、行くぞ……みたいなことを、実際に買い物をする前に考えることができる。ダンドリのいいひとは、家を出る前にシミュレーションを済ませてしまうかもしれない。
 やってみる前にあらかじめ考えることができるのは、生きていくのにとても有利なことだ。考えるのがあまり上手ではない生きものは、とりあえずやっちゃう。やってみて失敗したやつは死ぬ。違う仕方でやってうまくいったやつが生き残って子孫を残す。……というのを繰り返して、うまくいくやりかたをとるものが次第に増えていく。
 こんな具合に、種ぜんたいで試行錯誤をくりかえして上手にやれるようになっていく。もうちょっと賢くなると、一匹でも試行錯誤ができる。「あるときにはこのやり方、またあるときには別のやり方」といろいろやってみる。失敗した方法はだんだんとやらなくなり、うまくいったやり方をとるようになる。こういうのを「学習」っていう。学習できる生きものは、失敗すなわち死、みたいな生きものよりずいぶん賢い。でも、こいつらは、うまく学習し終えるまでに、ずいぶん失敗して痛い目にあわないといけないし、ひどい失敗をするとやっぱり死んじゃう。
 ヒトも学習できる生きものだ。やってみて失敗と成功から学べる。でも、それ以上に、「やる前に考える」ができる生きものでもある。痛い目にあう前に、これをやると痛い目にあいそうだと考えることができて、それをあらかじめ避けられる生きものだ。「まずは失敗を恐れずにやってみよう」って言われることがあるでしょ。「試行錯誤が大事だよ」って。でも、これって失敗しても死にはしないってシミュレーションができているから、言われるんだよね。人生いちかばちかだ。さあ、スカイツリーから飛び降りてみよう、ってアドバイスするやつがいたら、ちょっと頭がどうかしている。「まずはやってみたら」というのは、どっちを選んだってあまり変わらないことについて言われる。だから、どっちでもいいんだ。いずれにせよ、やってみる前に考えることができる。これは生きのびていくのにかなり有利だよね。
 ヒトは、けっこう大きな動物だ。ヒトより大きな動物と小さな動物を比べてみると、小さい動物の方が種類が多そうだ。イヌ、ネコ、ネズミ、トカゲ、イモリ、カエル、タイ、ヒラメ、カブトムシ、ミミズ……みんなヒトより小さい。ヒトは大型哺乳類〈ほにゅうるい〉なのだね。……にしては、一匹をとってくるとなんだか頼りない。サイのように分厚い皮をもっているわけでもないし、ライオンのように鋭い爪と牙〈きば〉があるわけでもない。クジラやゾウほどはでかくない。早く走れるわけでもないし、木登りが上手なわけでもない。一匹一匹はひどく弱っちい。なのに、こんなに繁栄している。いま、地球には60億匹以上のヒトが生きている。こんなにたくさん生きてる大型哺乳類って、他にいないよ。家畜は別として。
 生きものは、生き延びるために、それぞれいろんな方法を進化させてきた。毒をもったり、鋭い牙や爪を生やしたり、からだじゅうをトゲだらけにしたり、空を飛んだり……。こういうものをもたないヒトの祖先がとった「方法」の一つが「あらかじめ考えておく」だったのだろう。で、これはすごくよい方法だった。でなきゃ、こんなに栄えているわけはない。

「反省的ほにゃらら」って何だ?

 前回、ヒトの「考え」には、もうひとつの特徴がある、と言った。その第三の特徴とは、自分の「考え」について考えることができる、ということだ。例にあげたのは、「自分はいま邪悪なことを考えているな」、「さっきからわたしの考えは堂々めぐりになってるな」、「どうしてこのことを考えようとすると感情的になってしまうのだろう」といった考えだ。こういう種類の考えを、反省的思考という。
 「反省」というと、キミたちはあまりいいイメージをもっていないだろう。何か悪さをして叱〈しか〉られるときに「反省しなさい」と言われる。反省させるためと称して、ご飯をもらえなかったり、ぶん殴られたりする。児童虐待ね。あるいは、自分からすすんで反省することもあるけど、それにはたいてい後悔という感情がくっついてくる。「あー。なんであのとき見て見ぬ振りをしてしまったんだろう。勇気を出してやめろ、と言えばよかった。ぐわー」とかね。いずれにせよイメージよくない。
 でも、ここで言う「反省」というのは、そういう反省とは違う。自分を振り返って考える、というところは似ているかもしれないけど。たんに「ほにゃららについてのほにゃらら」のことを「反省的ほにゃらら」と言うのである。たとえば、もっと気高〈けだか〉い望みをもてるようなひとになりたい、と望んでいるひとがいるとする。これは「望みについての望み」だから「反省的願望」と言えるね。同様に、「自分の考えについての考え」は反省的思考という。自分のものの考え方にどんな癖があるかについて考えているようなとき、「ちょっと自分の思考傾向について反省的思考をめぐらせてみました」と言ってみなよ、カッコイイぞ。
 ヒトの次に賢いとされているチンパンジーに反省的思考ができるか。これは学者のあいだでも意見が分かれているようだ。でも、ヒトは反省的思考ができるが、そのほか大多数の動物にはできない、あるいは苦手。これは正しいだろう。
 じゃあ、反省的思考ができるとどういういいことがあるのか。二つあると思うのね。まず第一に、自分の思考の流れをコントロールできるということ。前回、わたしたちは起きているあいだじゅうずっと考えている、そしてその考えはどんどん移ろってしまう、と言った。さらに、そういう風に気が散るということは、ほんらいは悪いことじゃないとも述べた。でも、気が散っては困るときもあるのよ。一つのことをじっくり考えようとしているときだ。テストの問題を解こうとしているとき。あるいは連載の原稿を書こうとしているとき。
 今日はひさびさに時間がとれたので、この原稿を書いているわけだけど、もう、さっきから気が散りっぱなしだ。ヒトの思考の特徴について考えをめぐらせていると、ふと夕ご飯は何にしよう、と思ってしまう。で、あれこれ考えて、暑いのでさっぱりと枝豆とカツオのたたきでビールを飲もう、とか決めたりする。このとき、「あ、いかんいかん、考えがそれてしまった。ヒト思考の特質について考えねば」と考えることができないと、わたしの思考はそれっぱなしになる。これでは、今日中に原稿を仕上げることはできないぞ。
 こういうふうに、自分の思考がいまどうなっているかをモニターして、うまくコントロールするために反省的思考は役に立つ。ほかの例をあげるなら、「あれ、さっき考えたことと矛盾することを考えているぞ。もう一度考え直そう」とか「なんだこれ、さっき考えたことと結局同じじゃないか。別の視点から考えてみよう」とか。

第2回_イラスト1

 反省的思考の利点、その二。自分がいま考えている、その思考の流れをその場その場でコントロールするだけでなく、反省的思考によって、これまでの自分の考え方がもっていた癖やゆがみに気づくことができる。それによって、これからの自分の考え方をよりよいものに改善することができる。これは、第一の利点より、もっと長い時間にわたる話だね。
 先日、『主戦場』というドキュメンタリー映画を観た。すごく面白かった。そのなかに、自分の考えのゆがみに気がついてそれを自分で直したひとが出てきた。そのひとは、第二次大戦中に日本軍がしでかしたさまざまな悪さについて、それはそんなに悪いことではない、言いがかりをつける韓国・中国人の方が間違っていると主張する活動にとても熱心に参加していた(こういう人たちを歴史修正主義者という)。ところがあるとき、自分が日本軍はそんなに悪くなかったと考えていた本当の理由は、戦中の日本が批判されると自分じしんが攻撃されたような気になってしまい、そうして傷ついた自分を守るために、日本軍のやったことを正当化しなければならないと思ってしまったからなんだ、ということに気づいた。そうして、客観的に見れば自分のかつての考え方はひどく偏〈かたよ〉っていたことを認めるようになった。
 というわけで、このひとは自分で自分の思考傾向を修正することができた。これは、自分の考えについて考えることができたからだ。

なんで「よく」考える必要があるの?

 以上のように、ヒトには、他の動物よりちょっとばかりややこしいことがらを考える能力がある。そしてその能力によって、きびしい環境を生き延び、こんなに繁栄するようになった。というか、そういう能力をもったヒトだけが生き延びることができた、かな。なので、こうした「考えるための能力」はみんなに生まれつき備わっている。ヒトとして生まれるかぎり、みんな考えるようにできているのである。わたしたちは、どうしても考えてしまう。そして考えを止めることができない。それはサイがツノをつけたりはずしたりできないようなものだ。
 考えることができるというのは、基本的にはよいことだ。生きるのに有利なことだ。考えられないのに比べれば。だけど、このことは裏を返せば、わたしたちは「考える」に頼って生きていかざるをえない、ということでもある。ヒトのくらしは、みんなが考えられるということを前提してできあがってしまった。だから、たんに考えることができるのではダメだ。「うまく考える」ことができないと困ったことになる
 うまく考えられないと生きにくくなる、というのは一人一人をとってみても言えることだし、人類ぜんたいにも当てはまることだ。残念ながら、すべてのひとが善人なわけではない。自分さえよければ他人はどうでもよいと思っているひとがいる。他人を自分の欲望のはけぐちとしか思っていないひとがいる。他人の無知や不幸につけこもうとするひとがいる。他人を支配したり蔑〈さげす〉んだりするのが何よりの楽しみだというひとがいる。「あなたのため」と言いながら他人のプライバシーにずかずかと踏み込んでくるひとがいる。キミのまわりにもいるだろう。いっぽう、キミの成長を我がことのように喜んでくれるひと、いざというときにキミに助けの手を差し伸べてくれるひと、損得ぬきでキミと付き合ってくれるひともたくさんいる。でも、世の中はそういうひとばかりではない。あまり気分のよい話ではないけど。
 わたしたちの暮らす世界はユートピアではない。たしかに「ライフ・イズ・ビューティフル」でもあるんだけど「ライフ・イズ・ヘル」でもある。そういえば、ブルーハーツも、この世は天国じゃないけど地獄でもないと歌ってたっけ。
 さて、考える力はわたしたちみんなに備わっている。だから、あなたを傷つけ、利用しようとするひとも、考えることができる。どうやったら、あなたをもっと深く傷つけることができるか、どうやったら、あなたをもっと上手に支配することができるか。支配されていると思わせずに支配できたら最高だ。どうやったらそれができるだろう。……あなたの「敵」はこうしたことを考えている。こうした世の中で、ひとの食い物にされずに、しかも気高く生き延びる方法があるとしたら、それはただ一つ。そいつらよりもっとよく考えることだ。そして「やられたらやりかえす」「やられるまえにやっつける」ではない仕方で、どうやったらうまく生きられるのかを考えることだ。そうしないと、あなたの人生はずっと戦争状態(平坦な戦場)になってしまう。

「ヘタな考え休むに似たり」どころではない例

 うまく考えられないとたいへんだ、というのは社会ぜんたい、人類ぜんたいにも当てはまる。東日本大震災からもう8年以上たった。あのときのことを思い出すといまだに冷や汗が出る。福島第一原発の事故のことだ。メルトダウンしかけた原子炉をなんとかしようと現場の技術者たちは必死で努力していた。東京電力の幹部が「もうダメだ、撤退する」と言ったのを、政府が叱りつけてなんとか最悪の事態を防ぐことができた。もし、とちゅうで技術者たちが逃げ出していたら、東日本に住んでいるキミはいまごろ関西弁をしゃべっていたかもよ。
 日本は資源が足りない。とくに石油はほとんどとれない。そういう日本が戦後復興を遂げて経済成長するには、原子力エネルギーに頼るほかない。これはまともな考え方だったろう。そして善意の考え方であったこともたしかだ。ただ、急ぎすぎたとわたしは思う。考えが足りなかったと思う。もっと「よく」考えるべきだった。「原爆落とされて戦争に負けた日本は核の平和利用でこんどこそ世界にリベンジ!」という愛国的な感情に目がくらんでしまったということもあるでしょう。とにかく大急ぎで原発を導入しようとした。なので、冷却水がなくなったら原子炉はどうなるのという実験を国内で繰り返し行うこともなく、アメリカの原子炉をそのまんま輸入して使いましょうという、「ターンキー」方式がとられた。買ってきて、鍵を回せばそのまま使える、という意味ね。
 アメリカの原子炉は、だいたい内陸部にある。そこで怖いのは竜巻だ。なので補助電源は竜巻を避けて地下に置いてある。それを海っぺりにある日本の原発も真似してしまった。深く考えずに。なにせ「ターンキー」ですから。おかげさまで、津波で電源が使えなくなって、あの事故につながってしまった。
 まあ、百歩ゆずって、あの事故は「想定外」と言い訳できるかもしれない。わたしはそうは思わないが、できたとしよう。でも、核廃棄物(さいごに残る放射性のゴミのことね)の最終処分はどうするんだという問題は未解決のままだ。そういう廃棄物が安全になるまでには千年、万年単位の時間がかかる。その間、どうやってとっておこう。埋めちゃうにしてもどこに。誰も掘り返さないようにするにはどうしたら。「ここを掘ってはいかんよ」と立て札を立てるにしても、千年後のひとたちにまだ日本語が通じるかしら。だいいち、埋めて安全に管理するにはお金がかかる。そのお金を負担するのは未来のひとたちだ。このひとたちはいまの原子力発電の恩恵をこうむっていない。なのに負担だけおしつけるのはどうよ。
 こんなことは、ちょっと考えれば想定できたことだ。でも考えずに始めちゃった。なんとかなるべで突っ走ってしまった。その結果、行き場のない使用済み核燃料が六ヶ所村にたまり続けている。どうするよ、あれ。
 こういうのは「よく考えた」とは言わない。おかげで、キミたちの世代、その次の世代……がとても困ることになってしまった。これと似たようなことはいっぱいあるでしょ。国の借金がとんでもない額になってるとか、年金がもらえなくなるとか、人口が減るとか、いつまでたっても周りの国々と仲良くできないとか、こんだけ事故が起きてるのにまだ学校で組体操やってるとか。これって、みんなキミたち、またはキミたちの次の世代にツケがまわる。こうして、「すこしは考えたんだけどうまくは考えられなかった」ということ(この場合は、「うまく考えようとしなかった」ということ、と言うべきかな)は、未来世代も含む「みんな」にとても困った事態をもたらす。
 ヒトは考える能力を発展させて生き延びてきたんだけど、その能力は幸福も不幸ももたらすようになってしまった。うまく考えると幸福になれるかもしれないが、ヘタに中途半端に考えるとかえって不幸になる。というわけで、「うまく考える」ということはキミひとりのサバイバルにとっても、みんなのサバイバルにとっても、すごく重要なことなんだ。そして、考えることは誰にでも備わった能力だけど、「よく考える」ことはトレーニングしないとできるようにはならない。だから、「よく考える」ための練習が必要なんだ。

ザンゲします!

 先日、地下鉄の中で『ざんねんないきもの事典』という本の広告を見た。デンキウナギは、敵から身を守るために電気ショックを発するんだけど、そのとき自分も感電しているんだって。ざんねんな生きものだねえ、と笑っている場合ではない。生き延びるために思考能力をもったヒトも、その思考のせいで不幸に陥ることがある。だとしたら、わたしたちもざんねんな生きものだ。
 というわけで、「うまく考える」ということはキミひとりのサバイバルにとっても、みんなのサバイバルにとっても、すごく重要なことなんだ。ところが、考えることは誰にでも備わった能力だけど、「よく考える」ことはトレーニングしないとできるようにはならない。不幸にしてそのトレーニングを怠〈おこた〉ると、かなりざんねんな生きものになってしまう。だから、「よく考える」ための練習が必要なんだ。
 ……って、エラそうに書いてきた。だけど、ふと反省的思考をめぐらせてみると、そんなエラそうな説教ができた義理ではないということに気づいた。キミたちがかかえるだろう困ったことも生きづらさも、多くはわたしたち大人がよく考えなかった結果だもん。だから、次のように言おう。
 こんな世の中どうでしょう。わたしが若かったころには、もうちょっとよい世の中にするつもりでしたし、そうできると思っていました。でも、こんなものしかキミたちに手渡すことができません。それは、わたしたちがうまく考えることができなかったからです。だから、キミたちには、わたしたちよりもう少しよく考えることができるようになってほしいと思います。ですから、この連載を読んで、「よく考えるひと」への道を歩み始めよう。……いや、違うな。おねがいですから歩み始めてください。

というわけで、さっそくトレーニング開始

 ……ちょっと脅迫っぽかったかなと反省している。よく考えることができないとひどい目にあうぞ、だからトレーニングしようね、というのは暗いなあ。そこで、明るい面についても書いておこう。うまく考えることができると、考えることじたいが楽しくなるんだ
 わたしたちは走ることができる。こうした能力は、もともとは獲物を追いかけ、敵から逃げるために備わっているもので、それが身についてないと生き残りにくい。このように、走る能力は、ほんらいは別の目的のための手段として備わっているのだけど、わたしたちは走ることそのものを楽しむこともできる。走ることじたいが目的になるんだ。マラソンやジョギングを楽しむ人はたくさんいる。はたから見ると、ハアハア、ゼイゼイ、あまり楽しそうに見えないんだけど、でもご本人は走ることじたいがたまらなく楽しいらしい。走るのが上手になってくると、もっと楽しくなる。そうするとますます上手になる。そうするとさらにさらに楽しくなる。
 考えるのも、これと同じと思うんだよね。頭を絞って考えること、よく考えるためにいろいろ調べること、考えぬいたすえに謎が解けて頭がすっきりすること、これってそれじたい楽しいことなんだ。ものごとをうまく考えられると、キミの人生はより楽しいものになる。電車の中で数独とか詰将棋とか、考える系のゲームに熱中しているおじさんを見ることがあるでしょ。ご本人は「ボケ防止のためだよ」と言うかもしれないが、それにしては楽しそうにやっている。理詰めで考えること、そして考えて答えにたどり着くことそれじたいを楽しんでいるにちがいない。
 というわけで、考えることそれじたいを楽しむことのできるひとは、その分、より豊かな人生を歩むことができる。このことを肝にめいじて、ここからはガンガンいくぜっ。トレーニングのためのウォーミングアップはこれで十分。

「論理的に考える」ってどういうこと?

 本屋さんのビジネス書の棚にいくと、「なんとか思考でウハウハ金儲け」みたいな本がたくさんならんでいる。複眼的思考、戦略的思考、グローバル思考、デザイン思考、アルゴリズム思考……。えーっ、ビジネスマンになると、こんなにいろんな考え方を身につけないといけないの、と思っちゃう。だったらビジネスマンのみなさんはタイヘンだ。でも、意地の悪い言い方をすれば、こんなにいろいろ提案されてるのは、どれもイマイチだったからかもしれない。それに、思考法の本を書くというのもビジネスだ。他のひとと同じことを言っていては商売にならないから、いろんな思考法が編み出されることになるのかも。
 この連載では王道を行くよ。つまり、へんに個性的な「革新的思考法」を提案するのではなく、みんなが「よく考えるってそういうことだよね」と合意してくれそうな「ものの考え方」の正体をはっきりさせて、それを身につけてもらうことにする。
 さてそこで、「よく考える」ってどういうことだろうと自分に問いかけてみると、まずは「論理的に考える」ということかな、という答えを思いついた。同じような答えをしてくれるひとは多いだろう。必ずしも論理的思考イコールよい思考とは限らないと思うけど、「論理的に考えるべきときに、ちゃんと論理的に考えることができる」というのは、よく考えることのできるひとであるための条件だと言ってよさそうだ。
 じゃあ、「論理的」とか「論理」ってどういうこと? じつは、これにビシッと答えることは難しいんだ。でも、おおよそのイメージをつかんでもらうことはできる。先に、わたしたちの考えは、あっちへ行ったりこっちへ行ったりするのが特徴だ、と述べた。一つの考えから別の考えへと考えはつねに飛んでいく。あるときは、ぜんぜん関係ない考えに飛んでしまうことがある。
 キミが宿題の問題を考えているとしよう。そのとき、家の外から「ガシャーン」という音が聞こえて、「はっ。自動車事故かも!」と思う。キミの宿題思考と事故思考とはまるで関係がない。事故思考は、外から音が聞こえたという偶然のできごとによって、キミの思考の流れの中に割り込んできたと言える。
 まえの考えとあとの考えにつながりがあることもある。そして、そのつながりの種類もいろいろだ。「連想」というつながり方がある。日本地理の宿題で広島県の人口を調べているときに、ふと、広島名産のカキのことを考え、ぼくはカキよりアサリの方が好きだな、とアサリのことを考え、アサリの味噌汁が大好きだったおじいちゃんのことを考える。こんな具合に考えと考えがつながっていくこともある。これが「連想」だ。
 一つの考えが別の考えと連想でつながっているとき、そのつながりを言葉であらわそうとするとどうなるだろう。「そういえば」がピッタンコじゃないかな。広島県の人口はだいたい280万人か→「そういえば」→広島はカキが有名だな→「そういえば」→ぼくはあまりカキは好きじゃない。貝ならやっぱりアサリだな→「そういえば」→おじいちゃんもアサリの味噌汁が大好きだったっけ。という具合。もう、広島県はどっかにいっちゃった。

第2回_イラスト2

 「論理」というのも、「まえの考えとあとの考えのつながり方」の一種と考えたらよい。ただし、連想とはだいぶ違うつながり方だ。連想が「そういえば」でつながっているのに対して、論理的なつながりは、「なぜなら」とか「だから」という言葉であらわすことができる。たとえば、

 ぼくはカキが好きじゃない→「なぜなら」→カキは見た目が気持ち悪いから
 カキは見た目が気持ち悪い→「だから」→ぼくはカキが好きじゃない

第2回_イラスト3

 これが論理的つながりだ。別の言い方をしてみよう。「カキは見た目が気持ち悪い」というのは「ぼくはカキが好きじゃない」の理由になっている。もっとカッコつけた言い方でいうなら、「根拠」だ。逆に、「ぼくはカキが好きじゃない」というのは、「カキは見た目が気持ち悪い」ということから何が出てくるか、何が言えるかを述べている。「ふーん。カキは見た目が気持ち悪いのね。だからなんなの」ということを述べている。こういうのを「帰結」という。
 つまり、

 ほにゃらら→「なぜなら」→ほにゃららの理由
 ほにゃらら→「だから」→ほにゃららの帰結

 こんな風にして、根拠とか帰結という関係でつながった考え、それが論理的思考だ。そして、考えと考えを根拠・帰結関係でつないで考えていくことを「論理的に考える」という。はい。こうして論理的思考のいちばんシンプルな定義ができました。
 そこで次回は、どうやったら論理的思考を上手にすることができるのかについて学ぼう。

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プロフィール

戸田山和久(とだやま・かずひさ)
1958年、東京都生まれ。発行部数24万部突破のロングセラー『論文の教室』、入門書の定番中の定番『科学哲学の冒険』などの著書がある、科学哲学専攻の名古屋大学情報学研究科教授。哲学と科学のシームレス化を目指して奮闘努力のかたわら、夜な夜なDVD鑑賞にいそしむ大のホラー映画好き。2014年には『哲学入門』というスゴいタイトルの本を上梓しました。そのほかの著書に、『論理学をつくる』『知識の哲学』『「科学的思考」のレッスン』『科学的実在論を擁護する』『恐怖の哲学』など。

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