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エッセイ「日比谷で本を売っている。」第8回 〔秘湯と白猿〕新井見枝香

 日比谷で働く書店員のリアルな日常、日比谷の情景、そして、本の話(第8回)。※最初から読む方はこちらです。

 秘湯と呼ばれるその温泉は、気が遠くなるほどつづら折りを繰り返した、山の奥の奥にあった。江戸時代には、立派な茅葺き屋根の宿が3軒並んでいたそうだが、今はいちばん奥の1軒を残すのみ。火事で焼けてしまった真ん中の跡地は、そのままになっていた。そのいちばん手前、趣きのある新しい旅館が、今夜泊まる宿だ。浴衣を持って、さっそく風呂へ入ろうと脱衣所の扉を開けると、強い気配がある。温泉の熱気だけではなく、地面が揺れるほどの、湯が動く力だ。吹き抜けの浴場には3本の滝が落ちていて、轟音に近い音を立て続けていた。これが全て源泉なのだというから、この地の湯量がいかに豊富であるかがわかる。洗い場には、かけ流しの湯が溢れすぎていて、寝転がれば浮力を感じるほどだった。今夜私が眠る間も、東京に帰ってからも、こうして湯がドバドバと湧き続けていると思うと、自分が日々感じている時間の流れが歪む。自宅のユニットバスで、こまめに蛇口を閉めることをバカみたいだとは思わないが、そういう単位ではない話が、世界では同時に進行している。湯の花が舞う濃厚な湯に浸かり、地元の人に聞いたばかりの猿を思った。この地には「白猿」が生息していて、運がいいと、その姿を拝めることもあるらしい。なぜ白くなったのかは、わからない。けれど、必ず何か理由があるはずだ。
『すごいぞ!進化 はじめて学ぶ生命の旅』は大型の絵本である。地球に生物が誕生して、それらが現在の人類や、動物園で見たおなじみの姿に進化するまでが、わかりやすく解説されている。明らかに作者が「す、すごいぞ……!」と本気で思っていることが伝わってくる良書だ。確かにすごい。知れば知るほど、すごすぎる。もっと知りたいと興奮しながらページを捲った本は、記憶に残る。だから、ふとした瞬間に想像が膨らむ。
『残酷な進化論 なぜ私たちは「不完全」なのか』で進化の本質を知り、人間が死ぬことを、全く違う観点からも考えられるようになった。『地球に住めなくなる日 「気候崩壊」の避けられない真実』を読んで以降、気候崩壊で氷が溶け、水位があがった地球が脳裏から離れない。温泉の近くの、透き通った沼で見た水底の木のように、水に沈んだ世界では、人間が作った物も、呼吸ができなくなった人間自身も、みな静かにこうして時を止めるのだろうか。しかしこの絵本にはこんな面白い予測が書いてあった。「海面の上昇により世界に水が増えると、水泳や息を止めることが上手になり、指やつま先に水かきができるかもしれません」。我々人類が、カッパみたいに進化するかもしれないのか。それなら、カエルのようにジャンプがうまくなって、高い木に上れるかもしれないし、唇が進化して、シュノーケルみたいにビヨーンと伸びるかもしれない。
 火事で焼け残った400年前の岩風呂に浸かりながら、岩は岩のままよのう、と笑う。長い時間をかけて進化できる生物には、悲嘆より生きることへの希望が溢れている。

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プロフィール
新井見枝香(あらい・みえか)

書店員・エッセイスト。1980年、東京都生まれ。書店員歴10年。現在は東京・日比谷の「HMV&BOOKS HIBIYA COTTAGE」で本を売る。芥川賞・直木賞の同日に、独自の文学賞「新井賞」を発表。著書に『探してるものはそう遠くはないのかもしれない』『この世界は思ってたほどうまくいかないみたいだ』(秀和システム)、『本屋の新井』(講談社)。
*新井見枝香さんのTwitterはこちら

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