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神も仏も信じないわたしの宗教遍歴――「マイナーノートで」#22〔棄教徒〕上野千鶴子

各方面で活躍する社会学者の上野千鶴子さんが、「考えたこと」だけでなく、「感じたこと」も綴る連載随筆。精緻な言葉選びと襞のある心象が織りなす文章は、あなたの内面を静かに波立たせます。
※#01から読む方はこちらです。


棄教徒

 クリスマスの日に、アメリカの友人からアニメーションのe-cardが送られてきた。本人が若かったらきっとこうだろうな、と面影をしのばせる美少女が「聖夜」を歌うクリスマス・キャロルの動画だった。記憶がいっきょに子ども時代に引き戻された。

 北陸の地方都市に住んでいた子ども時代、クリスマス・イヴには毎年、クリスマス・キャロル隊が家の玄関前までやってきて、雪のなかで賛美歌を歌った。わたしたち家族は全員玄関に出て、キャロル隊の歌う賛美歌を厳粛な気持ちで聴いた。あのひとたちは雪のなかを教会から歩いてきたのだろうか。寒かっただろうに。信者すべての家を訪れたわけではないだろうから、父親は教会の長老かなんかだったのだろうか。それとも献金額が大きかったのだろうか。幼かったわたしにとって、いまとなっては何もわからない。しんしんと降る雪のなかで歌う一群のひとびとの姿が、なつかしい思い出とともに浮かび上がるだけだ。

 父は日本で人口の1%しかいないクリスチャン、それもプロテスタントだった。旧統一教会の献金問題を知って、若い頃父が収入の1割を教会に献金していたと母がこぼしていたことを思い出した。小さいときには「天にまします我らの父よ」で始まる「食前の祈り」をしていたこともある。子どもたちは教会の日曜学校に送られた。若いときには、夫婦ふたりで日曜学校の教師をボランティアでしていたとも聞いた。その日曜学校で絵本という絵本を読み尽くした。だがわたしは13歳で教会を離れ、きょうだいを含めて子どもたちの誰一人としてクリスチャンにはならなかった。

 わたしがクリスチャンにならなかったのは、父がクリスチャンだったからです、と言ってきた。言っていることとやっていることとのあいだに、断絶があった。アタマには理想主義が詰まっているかもしれないが、首から下のカラダは北陸のマザコンの長男で、かんしゃく持ちの亭主関白だった。あの世代にはめずらしい恋愛結婚のカップルだったのに、夫婦仲はよくなかった。夫を早く喪って怖いものなしの気の強い姑は、息子が連れてきた嫁を気に入らず、お決まりの嫁姑の確執があった。それを意地悪な目でじーっと見て育った孫娘が、長じて後、フェミニストになるにはかっこうの生育環境だった。

 祖母は敬虔な真宗門徒だった。本願寺さんの集まりには気軽に孫娘のわたしを連れて行った。精進料理が出てきて、おいしかった。尼寺の尼さんとも懇意にしていたから、こちらもお布施の功徳があったのだろうか。

 思えば父は、北陸の泥沼のような親族縁者の世界から、アタマひとつだけでも脱けだして、よその世界へ行きたかったのだろうといまにして思う。あとから日本の宗教のなかでは真宗の教義がきわだって一神教と親和性が高いことを知った。なるほど、明治生まれの真宗門徒の祖母、大正生まれのクリスチャンの父、そして教会を離れた昭和生まれの棄教徒の娘……近代日本三代の、なんてチープな家族の宗教歴なのだろう、と感慨を覚える。

 生育歴を問われる度に、父の悪口を言ってきた。生まれ育った家庭で日本の家父長制を学びました、と。だが……父のなかにあったあの理想主義は何だったのだろうか。

 賀川豊彦が北陸の教会を訪れたとき、握手した手を洗わないでおこう、と思ったと、あの潔癖な男が言った。ジャン゠ジャック・ルソーの『エミール』を読んで感激して抱いて寝た、とも言った。『エミール』はいまでも参照される教育書の古典である。子どもには子どもが自ら伸びる自発性がある、それを損なわないように育てるべきだというリベラルな教育法が書いてあるが、彼が実践した教育はそんなふうには見えなかった。父が感激した本なら、と思って読んでみたら、最後まで読んでがっくりした。「以上述べたことは女の子にはあてはまらない」と書いてあったからだ。女の子はすべからく男性を支えるように育てるべし、と。

 そうか、わたしの一生は誰かの「女子マネ」の役割を演じることか、と思ったら、そんなことはやってられない、と感じた。父は息子たちに対するようにはわたしに期待しなかったが、大学進学や大学院進学、極道ともいうべき社会学専攻を含めて、いちども反対しなかったのは、もしかして『エミール』の影響だったのだろうか。

 耶蘇やそ教徒っちゅうもんは、言うこととやることにこんなにギャップがあるもんか……と思いながら育った娘にとって、父は軽蔑の対象ではあっても尊敬できる対象ではなかった。クリスチャンのなかには、尊敬できる親を持ったゆえにキリスト教徒になった子どもたちもいるだろう。こんな話を聞けば、たまたまあなたの父親が困ったクリスチャンだったという不運からあなたが教会を離れたにすぎない、と解釈するひともいるかもしれない。

 だがたとえ浅薄なクリスチャンであっても父にそむくのは容易ではなかった。なぜなら彼の背後には神様がついていたからだ。神様に背いて教会を離れるには、子どもながらに理論武装しなければならなかった。

 あるときから神を「父よ」と呼ぶのはやめた。なぜ「母」でなくて「父」なのだろう、と素朴な疑問を持ったからだ。神様にわたしひとりの名前をつけた。神戸の連続児童殺傷事件の犯人、少年Aが自分の神に「バモイドオキ神」と命名した気持ちがわかる。

 最初に赴いたのはカソリック教会だった。ものものしい祭壇や儀式ばったミサなどには閉口したが、軽くてカジュアルなプロテスタントよりはほんものらしい気がした。そういえば知識人が晩年に改宗するキリスト教は、ほとんどカソリックでプロテスタントではないのはなぜだろう? 後になって無教会派というプロテスタントのセクトがあることを知ったが、神と自己とのあいだに教会を一切介在させない厳しい対峙に耐えられるひとは、多くはないだろう。

 神父と親しくなって、ある日、父に「洗礼を受けたい」と言ったら反対された。洗礼など受けたら将来結婚相手に制約ができる、という世俗的な理由からだった。なんだ、このひとの信仰もこの程度のものだったのか、と思った。

 部活動の先輩に寺の息子がいた。知識欲に燃えていたわたしを熱心に啓蒙して、次々に仏教書を読ませた。そのなかに中村はじめの『原始仏典』があった。弟子による経典が完成する前の、仏陀のことばを忠実に書き留めたもっとも初期の仏典である。それをむさぼるように読んで、原始仏教が真宗と似て非なるものであることを知った。仏陀は「専修念仏」「他力本願」などとは決して言わなかった。それどころか、「我こそ我の主たれ、いかんぞ他を主とすべけん」と宣告したのだ。仏陀である自分をもあがめるな、と。

 わたしの宗教遍歴は、その後、禅宗に向かった。禅宗には超越的な要素は何もなかった。ひたすら自己を律する行の集合だった。わたしになかったのは信仰だった。わたしはいまでも超越性と霊性が苦手である。スピリチュアリティと言われると、逃げだしたくなる。

 困難にあるとき、苦しんでいるひとを目の前にしたとき……「ご一緒に祈りましょう」とか「ご一緒にお念仏をお唱えしましょう」と言えたらどんなにいいだろうか、と思う。だがわたしは祈りを自分に禁じてきた。あの世も彼岸も信じない。極楽も天国もあるとは思えない。魂があるとは思わないし、魂魄こんぱくがこの世に残ったりしたら迷惑だ。生まれ変わるなんて、ごめんこうむる。人生は1回でたくさんだ。棄教徒には棄教徒の矜持もあるのだ。
 こんなわたしはしょせん「救われない」……のだろうか?

(タイトルビジュアル撮影・筆者)

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プロフィール
上野千鶴子(うえの・ちづこ)

1948年、富山県生まれ。社会学者。認定NPO法人ウィメンズアクションネットワーク(WAN)理事長、東京大学名誉教授。女性学、ジェンダー研究のパイオニアであり、現在は高齢者の介護とケアの問題についても研究している。主な著書に『家父長制と資本制』(岩波現代文庫)、『スカートの下の劇場』(河出文庫)、『おひとりさまの老後』(文春文庫)、『ひとりの午後に』(NHK出版/文春文庫)、『女の子はどう生きるか 教えて、上野先生!』(岩波ジュニア新書)、『在宅ひとり死のススメ』(文春新書)などがある。

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