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永井路子と杉本苑子、二大作家の視点が一致した「蘇我系女帝説」とは?――周防柳「小説で読み解く古代史」第17回(謎6 その2)。

本がひらく

「邪馬台国はどこか?」に代表されるように、日本の古代史はいまだ解明されない謎ばかり。そのため、吉川英治や松本清張をはじめ、たくさんの作家がインスピレーションを掻き立てられては物語を書き、あるいは持論を展開してきた。本連載では、日本史を舞台にした作品を多く手掛ける著者が、明治・大正・昭和の文豪から平成・令和の小説家まで、彼らが描いた「歴史的なあの場面」に焦点をあて、諸説を紹介しながら、自身もその事件の背景や人物像を考察していく。作家ならではの洞察力と想像力を駆使して謎に挑むスリリングな古代史企画。
*第1回から読む方はこちらです。


謎6 女帝と藤原氏の世紀 (その2)

蘇我系女帝の意地を通す

 では、元明げんめい元正げんしょう女帝の時代に進みます。取りあげる作品は、永井路子ながいみちこさんの『美貌びぼう女帝じょてい』です。

 美貌の女帝、、、、、とは、容姿端麗であったと伝えられる氷高皇女ひだかのひめみこ――、元正女帝です。史上初めて皇后ではなく、未婚の皇女として即位しました。母は元明女帝、父は草壁皇子くさかべのみこで、弟に軽皇子かるのみこ文武もんむ天皇)、妹に吉備内親王きびないしんのうがいます。

永井路子『美貌の女帝』(文春文庫)

 まずは、皇位継承の流れを概観します。
 持統じとう女帝ののち、皇太子の草壁が早世したため、草壁の子の軽が十五歳で位を継ぎました。しかし、その彼もわずか十年、二十五歳の若さで夭逝してしまいます。跡目には、その夫人で藤原不比等の娘の宮子みやこが生んだおびと(のちの聖武しょうむ天皇)が望まれました。しかし、まだ七歳と幼少に過ぎるので、文武の母で、首には祖母に当たる阿閇皇女あへのひめみこが位に就くことになりました(四十三代元明天皇)。
 ところが、元明女帝はその後、首が軽と同じ十五になっても位を渡そうとせず、大方の意表を突くようにして、娘の氷高に譲位しました(四十四代元正天皇)。首が天皇になるのは、それからさらに九年後です。
 このころの皇位継承はややこしく、直系継承を基本とするといいながら、上がったり、下がったり、横に行ったり、かなり奇妙な軌道を描きます。子から母へ位が逆戻りするなどは、日本史上他に例がありません。
 私は先ほど、この百年は天武天皇の血脈が守られた百年であると述べました。確かにそれは事実なのですが、もう少し角度を変えると、別の風景が見えてきます。
 それこそがこの小説のテーマで、永井さんはこの時代の複雑な皇位の動きを「蘇我系の女帝、、、、、、たちの格闘」という視点からとらえたのです。
 いわく――。
 この国では、欽明きんめい天皇の昔から百五十年、つねに蘇我の女が天皇の后妃こうひ、あるいは天皇の母となりつづけてきた。言い方を変えれば、蘇我の血の混じらない者も、蘇我の女人を后妃とすることによって、帝位をむことができたといえる。蘇我の血は皇室をびっしりと取り囲み、その枠は一度も踏み越えられることはなかった、と。
 敏達びだつ用明ようめい崇峻すしゅん推古すいこ舒明じょめい皇極こうぎょく斉明さいめい)、孝徳こうとく、天智、天武。たしかに、みな母、もしくは后妃が蘇我系です。持統女帝の母は、蘇我倉山田石川麻呂そがのくらやまだいしかわまろの娘の遠智娘おちのいらつめ、元明女帝の母は、同じく石川麻呂の娘の姪娘めいのいらつめです。元正女帝も元明女帝の娘なので、やはり蘇我系です。これは、皇統を母系から見たとき浮かびあがってくる事実であり、永井さんは、この誇らしき伝統が、彼女らの意識を支えたと考えたのです。
 蘇我氏といえば乙巳いっしの変で滅びたイメージがありますが、実際には分家の倉麻呂の系統が残っていて、のちに倉山田石川麻呂が中大兄皇子にちゅうされ、壬申の乱で赤兄あかえ果安はたやすが滅びるまで続きました。その血を伝える最後の娘たちが、元明、元正らであるわけです。 
 この説に出会ったとき、私は目からうろこが落ちました。というのも、天武天皇にはじつにたくさんの妻がおり、処理に困るほど多くの皇子がいたのに、草壁皇子が死んだとき彼らは全員無視され、孫の軽が選ばれてしまいました。その無理筋、、、はいったいなにを守ろうとするゆえなのか、いまひとつ理解できなかったのです。
 ひょっとすると、持統天皇は夫の天武よりも父である天智の血を重んじていたのだろうか。それとも単純に、自分自身の血を伝えたかったのだろうか。だとすれば、愚かな母親のエゴイズムということになるが――、などと頭をひねっていたところへ、まったく別の可能性をこの本が示してくれたのです。
 話を元に戻します。
 そのようにして蘇我の女たちが守りつづけてきた灯が、いま消え去ろうとしているのです。その風前の灯の向こうに、取って代わろうとしている者たちの気配がありありと見えます。それこそが、藤原不比等ひきいる藤原氏であるわけです。

桃山時代に描かれた藤原鎌足(中央)と藤原不比等(左下)
(奈良国立博物館蔵)ColBase(httpscolbase.nich.go.jp)

 不比等の父、鎌足は天智天皇の無二の腹心であったため、不比等は壬申の乱ののちしばらく、目立たぬ位置に息をひそめていました。が、天武天皇も亡くなり、ほとぼりもさめたとみて、またぞろ活動を再開したのです。
 不比等と女帝たちの関係についてはさまざまな解釈があり、同志とみる意見と、敵対関係とみる意見に分かれます。本書では徹底して後者の考えです。蘇我の血脈を無上の誇りとする女帝たちにとっては、藤原氏などは成りあがりにすぎぬというわけです。
 抜け目のない不比等は、この国の心臓部である皇統にひたひたとしのびよっていきます。その手引きをしたのは、軽(文武)の乳母をつとめる県犬養あがたいぬかいたちばなの三千代みちよでした。不比等は三千代と愛人関係になり、まず娘の宮子を軽の後宮に入れます。そして、まもなく誕生した首(のちの聖武天皇)に、自分と三千代の間に生まれた光明子こうみょうしをめあわせんとたくらみます。幼い二人を血を分けた兄妹のように育て、そのままなし崩し的に夫婦にしてしまう作戦でした。
 このような経緯があるため、元明、元正両女帝にとって首は微妙な存在でした。
 彼は蘇我の血を一滴も引かぬ宮子の腹から生まれ、蘇我の血を一滴も引かぬ光明子をきさきとしました。元明天皇が首ではなく、肩透かしのように娘の氷高に譲位したことには、蘇我の女を母にも后妃にも持たぬ皇子に、簡単に位はやらぬという反骨精神があったのです。
 しかし、そんな抵抗もいつまでも続けられるわけではありません。首が二十五歳になったとき、元正女帝は譲位を決意します。そして、敗北感に打ちひしがれるのです。
 もう一つ付言すると、母方に蘇我の血を引く天皇は、じつは、あと幾代か続く可能性もありました。その希望は長屋王ながやおうの子たちです。
 長屋王は高市皇子たけちのみこの嫡男で、高市亡きあと、廟堂における皇族政治家として元明、元正両女帝を強力に支えました。元明女帝の実姉の御名部皇女みなべのひめみこが高市皇子の正妃となり、元正女帝の実妹の吉備内親王が長屋王の正妃となりました。長屋王家は、蘇我系女帝たちと濃厚に結ばれていたのです。
 ゆえに、元正女帝は首の次は長屋王の子たちに位を、という望みを持っていました。
 ところが、その後、長屋王は左道さどう(邪悪なたくらみ)をもって天皇家を傾けんとしたという嫌疑を受け、妻の吉備と四人の子もろとも、死に追いやられてしまいました。かくして蘇我の女たちの系譜は完全に絶えました。
 元正女帝はその後藤原氏が全盛となっていくなか、最後の蘇我系女帝として六十九歳まで孤独な人生をまっとうしました。
 持統天皇などと比べるとやや地味な存在ですが、なかなかどうして意志堅固で、あの藤原不比等とよく渡りあいました。永井路子さんの独特の史観が興味深い一冊です。

苦悩の都に鍍金する

 続けて紹介したいのは、杉本苑子すぎもとそのこさんの『穢土荘厳えどしょうごん』です。
 本書で描かれるのは、「長屋王の変」の前後から東大寺の毘盧遮那仏びるしゃなぶつの開眼供養に到る、四半世紀です。稀代の策士不比等によって端緒が開かれた藤原氏の拡大路線が勢いに乗り、その第二世代である四人の息子たち(武智麻呂むちまろ/南家、房前ふささき/北家、宇合うまかい/式家、麻呂まろ/京家)によって、政界を牛耳るさまざまな策が繰り出されます。しかし、そのなりふり構わぬ攻め手が社会不安を引き起こし、結果として「仏教」に救いを求めようとする機運が異常な盛りあがりをみせた一時期であります。

杉本苑子『穢土荘厳』(文春文庫)

 永井さん作に続けて――と言ったのは、「蘇我系女帝説」の考え方がみごとに一致しているからです。永井さんと杉本さんは仲良しの両大御所でいらっしゃるので、もしかしたら共同戦線を張って同じ説を展開されたのかな……、などと想像すると、ちょっと面白いものがあります。
 ともあれ、蘇我系の誇りを堅持する元正女帝と、その思いを踏みにじるように突き進んでいく藤原一門のその後の行方を知りたい方におすすめです。
 本書の主人公は手代夏雄たしろのなつおという長屋王家の若き資人しじん(貴族に仕える下級官人)なのですが、いわゆる主人公らしい単一視点ではなく、多数の登場人物に同時進行的に焦点を当ててゆく群像劇の形をとっているところに大きな特徴があります。
 全体を俯瞰すると、ざっくりと二つの流れがあり、一つは夏雄を中心とする物語です。長屋王家が謀反の嫌疑により襲撃されたとき、夏雄は重傷を負いながらからくも逃れ、ひょんななりゆきから行基ぎょうきの仏教集団にかくまわれました。夏雄はそのまま出家し、彼らの社会活動に身を投じます。
 もう一つは、聖武天皇や光明皇后(光明子)、元正女帝、光明皇后の母の橘三千代など、皇室を中心とする流れです。
 その多くの登場人物の中でも、とりわけ際立った人物造形がなされているのが、聖武天皇と光明皇后です。数奇な運命を背負って生まれてきたこの夫婦は、多くの小説に登場しますが、杉本さんの描く二人の姿がもっとも実像に近いのではと、個人的には感じます。
 不比等と三千代の遠謀えんぼうによって、彼ら二人は幼少期からぴたりと添うように育てられました。ゆえに、結びつきは普通の夫婦より強かったと思います。しかし、いつまでもむつまじくいられたかといえば、難しかったのではないでしょうか。天皇は長じれば多くのきさきを持たねばなりませんし、それにともなう謀略と、常に隣り合わせで生きなければならなくなるからです。
 聖武天皇の後宮にも複数の女人が入りましたが、なかでも蘇我系女帝陣から送り込まれた県犬養広刀自ひろとじという美貌の娘が、光明子のライバルとなりました。
 妻妾が出揃えば、誰が最初に男子を生み、どの子が皇太子になるかという熾烈な競争が始まります。そのころから、彼ら夫婦の間にも溝が意識されるようになったのではないかと想像します。
 光明子は十八のときに早くも第一子の阿倍内親王あべないしんのうに恵まれましたが、そのあとが続きませんでした。九年後にようやく念願の男子(基王子もといおうじ)が誕生し、襁褓むつきもとれぬうちに皇太子に立てられますが、満一歳にも届かず夭逝してしまいます。藤原陣営の落胆は言うまでもありません。しかも、それに輪をかけるように、今度は広刀自が安積親王あさかしんのうを生みました。ますます穏やかならぬ展開です。
 藤原陣営は、なにがなんでも光明子の子を皇位につけたいのです。そこで、なりふり構わぬ策謀をめぐらせはじめます。
 当時の律令には天皇の妻に関する規定があり(「こう」「」「夫人ぶにん」「ひん」)、后と妃は皇族、上級の臣下は「夫人」、下級の臣下は「嬪」とすると定められていました。光明子も広刀自も同程度の氏族ですから、ともに「夫人」です。しかし、広刀自のふところには安積親王が育っているので、いまのところ光明子より分があります。このままいけば、負けてしまうかもしれません。そこで、彼らは光明子を「皇后」に格上げする無謀な作戦に出るのです。
 これまでに臣下の娘が二段階も飛び越して皇后になった例はありません。そんなことを許せば、夫たる天皇の死後、女帝となることすら可能になってしまいます。当然、激しい反対意見が予想され、その急先鋒となるのは左大臣の長屋王のはずでした。彼は以前、藤原陣営が聖武天皇の母の宮子夫人の称号を強引に「大夫人だいぶにん」に変更しようとしたときも、先頭に立って異議を唱えました。
 ところが、このごり押しの案件はそのまま通りました。なぜなら、それより先に長屋王に謀略をしかけて葬ったからです。
 目の上のこぶの長屋王が消え、藤原四兄弟のこの世の春が始まりました。
同時に、聖武天皇の憂鬱も始まりました。それは、信じられるものがない、自分の居場所がない、愛する者も守れない、なにをなしたらよいのかわからない――という絶望感でした。
 その弱った心に追い打ちをかけるように、天災、凶作が国土を襲い、さらに都に疫病の嵐が吹き荒れました。天然痘てんねんとうです。恐ろしいやまいはあっという間に都じゅうに広がり、わずか四カ月の間に、武智麻呂、房前、宇合、麻呂の四兄弟を黄泉よみの国へ連れ去ってしまいました。
 聖武天皇はこの凶事を長屋王の祟りと信じ、震えあがりました。恐怖心を抑え込む術は、もはや仏の加護にすがることしかありませんでした。
 さらに、筑紫の大宰府に赴任していた式家の宇合の子の広嗣ひろつぐが反乱を起こしたとき、聖武天皇の心の糸が、いよいよぷつりと切れました。事態はすぐに鎮圧できたのに、敵軍が大挙して攻めのぼってくるがごとき妄想に駆られ、突然、伊勢神宮へ向けて旅立ちました。
 それが始まり、、、で、以後、聖武天皇は各地を転々とする浮き草暮らしに入ってしまうのです。
 初めは山背やましろ恭仁京くにきょうに遷都し、次に近江の紫香楽京しがらききょうに遷りました。続いて、草深い紫香楽の山中に巨大な毘盧遮那仏を建立することを思い立ちます。その場当たり的な行動に、批難の渦が起こります。しかし懲りずに、さらに難波に遷ります……。
 度重なる妨害の放火によって紫香楽の工事が続行不能になり、やむなく平城京に戻ったときには、五年もの歳月が流れていました。
 この聖武天皇 の異様な心理を、本書は克明に描きます。
 先にも言いましたように、聖武天皇は藤原氏が誕生させた天皇です。それゆえに、非皇族というコンプレックスがありました。開き直って藤原氏に染まってしまえば楽だったのかもしれませんが、それもできませんでした。この天皇の脆弱な魂は、藤原一族のどぎつい陰謀のにおいが耐えがたかったのです。さりとて蘇我にも添えません。小姑こじゅうとめのような老女帝らの繰り言につきあっていると、果てしなく心が滅入っていきます。では、自分は何者なのか。どこに依って立つべきなのか。国民をべる資格のある天皇といえるのか。そんな所在のなさに終生さいなまれつづけたのです。
 聖武天皇は紫香楽でなしえなかった大仏造立を、奈良で再開します。おのれを押しつぶそうとする不安に打ち勝つため、仏はあたうかぎり巨大でなければなりませんでした。全国の人民を巻き込んだとてつもない大事業が始まります。
 一方、妻の光明皇后のほうは、夫と違って揺るがぬ精神の持ち主として、杉本さんは描きました。
 多くの場合、この皇后はたおやかな佳人として語られるのですが、本書ではむっつりとして、口数少なく、愛想もあまりよくない女人です。まぶたも鼻も唇もぼってりと分厚く、肌は浅黒く、こうと決めたら梃子てこでも動かぬ頑固さが顔に現れています。想像ですが、東大寺の大仏の尊顔に似せたのではないでしょうか。
 施薬院せやくいん悲田院ひでんいんを建設し、熱心に活動をしました。頼りにならぬ夫に代わって、政治的決定の主役となりました。不比等の四子が天然痘で逝ったのち、廟堂は三千代の子である橘諸兄たちばなのもろえらが主役となりますが、その様子を横目に見ながら、光明は仲麻呂ら次の世代を擁護し、一族が再び主役になるまでのつなぎ役を務めきりました。
 彼女自身、臣下の出身で皇后になった初めての人ですが、わが子の阿倍内親王を異例の独身女性皇太子に立てた、これまた初めての人でもあります。
藤原の女として誇りを持ち、終生頑張り通せたという意味では、アイデンティティの定まらなかった夫よりも幸せであったのかなという気がします。
 さて、物語は東大寺の毘盧遮那仏が完成し、その開眼供養が営まれるところで閉じられます。
 当日は仏殿の前庭に百官が満ち満ち、異国の使節がきたり、華やかな歌舞音曲が奏でられ、譲位した聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙女帝の臨席のもと、慶賀けいがのもよおしが次々に行われます。
 その様子を、行浄ぎょうじょうと名乗る僧となった手代夏雄たちがはるかな丘の上から見下ろします。彼ら行基の集団は、東大寺造営の裏方として汗水たらして働きました。しかし、彼ら使役えだちの者たちがそのうるわしい法会ほうえに招かれることは、むろんありません。
 ここで夏雄たちが交わすやり取りが印象的です。
 目の先の殿舎の中にあるのは、大陸にも例をみない、度肝を抜かれるような仏像です。しかし、果たしてそれは民を救うのだろうか、と。
 答えは否です。これが造られるために、どれだけ莫大な人々が駆り集められ、どれだけ過酷な労働を強いられ、どれだけ骨身を削られ、鞭打たれ、どれだけの命が危険にさらされたでしょう。そもそも仏が民を救うために、こんな豪華なものは必要ないのです。
 とはいえ、その施主にはこれしか方法がなかったのです。ぎりぎりおのれを保つために、なにか圧倒的なものを作るしかなかった。そんな聖武天皇の心が、ひたすら悲しい気がします。
 そして、そこにこそ、本書のタイトルである「穢土荘厳」の意味があります。それは、輝かしい仏教の精華をことほぐことではなく、なにも解決されていない汚穢おわいまみれの現実の上に、きらびやかな金銅こんどう鍍金めっきをかけ、覆い隠すことです。
 壮大すぎてあっけにとられるような皮肉なのです。

次回(11月20日公開予定)に続く

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プロフィール
周防柳(すおう・やなぎ)

1964年生まれ。作家。早稲田大学第一文学部卒業。編集者・ライターを経て、『八月の青い蝶』で第26回小説すばる新人賞、第5回広島本大賞を受賞。日本史を扱った小説に『高天原』『蘇我の娘の古事記』『逢坂の六人』『身もこがれつつ』がある。

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