見出し画像

エッセイ「空想居酒屋」第9回 〔魅惑の寿司屋台〕 島田雅彦

 コスパ重視のはしご酒が長期的ブームになっているのは、経済停滞の明白な証ではあるのだが、どんなスタイルで飲もうと、酔えば都。酒は酒。都内に酒飲みの聖地はいくつもあるが、葛飾区の立石に話題が及ぶと、行ったことのある者同士は、どの店に行ったか、あの店の味はどうか、こんな穴場がある、と三十分話題を持たせられる。
 私も年に四度は立石詣でをする。じきに駅周辺の再開発が始まるというから、あの昭和の香りがプンプンする魅惑のアーケード仲見世通りも姿を消してしまうのだろう。昭和を三十年間生きた人間としては哀惜の念を禁じ得ない。ほとんど永井荷風の気分で今のうちにノスタルジーに浸れるだけ浸っておこうと思う。
 最初に訪ねるのは改札を出て跨線橋の階段を降りてすぐ、仲見世通りの入口のところにある栄寿司と決まっている。この店に気取ったところは微塵もなく、引き戸を開けると、そこにはカウンターがあるだけ。ここは立ち食いの寿司屋で、客はカウンター越しに板前と向き合い、タイミングを狙って、食べたいネタを注文し、胸をつまらせない程度に早食いして、三十分未満で立ち去ってゆくファーストフーズ店なのである。といっても、チェーン店でもなく、ベルトコンベヤーがあるわけでもなく、マニュアル通りの口上も無料の笑顔もなく、元優男の大将が手際よく寿司を握りながら、常連客と話を交わし、女将があがりを用意する町の寿司屋である。店の前には常に行列ができており、カウンターにしがみついて一時間以上粘るような客はほとんどおらず、誰もがふらっと来て、好みのネタを八貫ほど食べて、次の客に場所を譲る。ほとんど立ち食いそば感覚の寿司屋なのである。
 どのネタも一貫百十円か二百二十円、大トロでも三百三十円だが、そのクオリティは高く、近所にあったら、毎週通いたい。鯛の昆布締めは湯引きした皮もついているし、小肌の酢締め具合も絶妙、煮ハマグリや煮アワビ、煮穴子といった江戸前の煮ネタシリーズはどれも丁寧な仕事ぶりで、貝のプリプリ感、穴子のフワフワ感も際立っている。甘ダレも甘過ぎないのがいい。赤貝はまな板に叩きつけると、反抗的に反り返る鮮度で、シャリの上で立体的に存在を主張している。ここは貝の種類がいつも豊富で、みる貝、ほたて、平貝、ほっき貝、つぶ貝、とり貝、青柳なども揃っている。その日にあれば、金目鯛などは特にお勧めで、適度に脂が乗ったその食感に目が一回り大きくなる。ここの甘さを抑えたガリも絶品だ。
 栄寿司は屋台の寿司屋という分類もされているようだが、本来、寿司はそばとともに江戸のファーストフーズであった。以前、南千住を散歩していたら、正真正銘の屋台の寿司に遭遇したことがある。その寿司屋は縁日の屋台のように通りにカウンターをおき、板前が一人で立っている。屋根はないが、「寿司」と染め抜かれたのぼりが立っていて、ネタは氷を敷いた木の箱の中に入っている。カウンターは三人分のスペースしかないが、その場で握ってもらった寿司を頬張る。志賀直哉の有名な短編に『小僧の神様』というのがあるが、寿司を食べてみたくてたまらない丁稚の小僧がマグロの握りを手に取るが、値段を聞いて、返すというシーンがあり、それを傍で見ていた「神様」が板前に金を渡し、今度、あの小僧が来たら、腹一杯食わせてやれという。そんな話だが、おそらく舞台となった寿司屋は、通りがかりに二、三貫つまんでゆくような屋台だったに違いない。

立石の仲見世通り

立石の仲見世通り

 そういえば、それに近い雰囲気の寿司屋は羽田空港のセキュリティ・ブースをくぐった先のターミナルにあった。通路に面した一角で立ち食いで気軽につまめるような仕様になっている。私はこういう屋台の寿司屋をヴェネチアで開業するという夢を抱いたことがあった。ヴェネチアほど酒飲みにフレンドリーな町もないと思うが、ここではバーカロと呼ばれる気軽な立ち飲みの店が無数にある。カウンター越しに飲み物を注文し、現金と引き換えるのだが、人気店はカウンター前に二重の人垣ができている。ここで出すつまみはチケッティと呼ばれるフィンガーフーズで、オリーブと蛸を楊枝に刺したもの、グリッシーニに生ハムを巻いたもの、アンチョビやカニサラダのカナッペなどを食べながら、プロセッコを飲む。
 ヴェネチアは魚市場が充実しており、リアルト橋脇のマーケットに午前中に行けば、鮮度抜群の魚介類が種類豊富に並んでいる。それが生食可能かどうかの目利きくらいは私もできるので、よくマーケットを一周し、寿司ネタになりそうなアイテムを数えたものである。ヴェネチアではよくカルパッチョで食べられるスズキは昆布締めにし、穴子の代わりに鰻を煮る。アジとイワシは生でもいいが、サバは酢で締める。マグロは赤身と中トロ、白身はハタやヒラメ、キンキをよく見かけた。イカはヤリイカとダルマイカの二種類は常時、手に入り、タコ、ホタテ、ハマグリも揃っている。アトランティック・サーモンも安いし、海老は大小様々ある。日替わりで十二貫のおまかせ握りを供することはできるだろう。
 目下、ヴェネチアに寿司屋はないので、リアルト橋のそばのバーカロを借りるか、アパートの前の路地、広場の片隅に屋台を出す許可をもらえば、たちまち評判となり、長蛇の列ができるだろうとヴェネチアの友人と盛り上がった。寿司屋の調理インフラはごくシンプルなもので充分だ。魚も貝もあらかじめ下処理をして、クーラーボックスに入れておけばいいし、酢締めや煮物の仕込みをしておき、酢飯はジャーに入れて持ってゆく。屋台では必要に応じて、バーナーの火で炙りを入れるくらいでいい。カセットのコンロの上にはあらの味噌汁、ポットにはあがりを用意しておく。用意したネタが尽きたら、店じまい。おそらく開店から三時間で売り切れるだろう。その日にマーケットに出た魚介を調理するので、仕込みに三時間はかかるから、開店は午後四時くらいで、店じまいは午後七時。本格的な食事の前のアペリチーフの感じで一人四、五貫つまんでもらうくらいでいい。八時には片付けも終わり、板前の私も飲み歩きに出かける。

バーカロのチケッティ。ここに寿司ネタを入れる

バーカロのチケッティ。ここに寿司ネタを入れる

 ニューヨークに住んでいた頃は自分の行きつけの寿司屋を持っていた。ミッドタウンの高級店ではなく、グリニッジヴィレッジのこじんまりした大衆店だった。アメリカの寿司はロールが豊富で、この手のアメリカ化したキワモノ寿司も悪くなかった。アボガドとカニカマのカリフォルニア巻、鮭皮を焼いたものを巻いたサーモンスキン・ロール、脱皮直後の渡り蟹ソフトシェルクラブを油で揚げたものを巻いたスパイダー・ロールなど様々だった。高級店は毎日日本から空輸したネタを使っていたが、大衆店はニューヨークの近海ものをよく出していた。中でも絶品だったのはロングアイランド産のヒラメだった。これは昆布締めが最高だった。生食できるハマグリ、チェリーストーン・クラムも美味かった。
 日本の名店での修業は長い回り道を強いられることもあるが、ニューヨークにある寿司アカデミーでは実践的な研修が受けられ、即戦力としてすぐに何所かの寿司バーで雇ってもらえるらしい。十数年前、知り合いから一通のメールが届き、アッパーウエストサイドの寿司バーで私の中学時代の同級生という男に会ったと報告があったので、冷やかしで行ってみたら、確かに見覚えのある顔がいた。彼も寿司アカデミーで研修を受け、中国人経営者に雇われたらしい。聞けば、日本にいられなくなる複雑な事情があったようだが、ニューヨークではアメリカ人と結婚し、よろしくやっているようで何よりだった。身の上話を聞いたお礼のつもりか、サービスでヒラメの薄造りを出してくれた。
 二十六年前にベルリンで食べた寿司のことも忘れ難い。ドイツではまだ寿司はニューヨークほどは普及しておらず、ドイツ人の板前もぎこちなかった。私が日本人だとわかると、急に緊張の面持ちに変わった。丁寧に握ろうとしてることはわかったが、肩に力が入り過ぎていて、嫌な予感がした。差し出されたサーモンの握りを口に入れると、シャリがやけに硬かった。どうやら、渾身の力で握ったと見え、嚥下した後、胸が詰まった。「リラックス、リラックス」と声を掛けると、引きつったような笑いを浮かべたが、次のマグロの握りも硬かった。四貫食べただけで消化不良を起こしそうになり、早々に引き揚げたが、その時の板前の悪びれたような顔が印象に残っている。寿司の味の六割はシャリが決めるというが、そのドイツ人がわかっていたかは怪しい。酢、砂糖、塩で味付けした酢飯は米の漬物みたいなもので、それこそネタなしのシャリの握りだけでも味わい深くなければならない。ところで、シャリが仏舎利、すなわちお釈迦様のお骨を意味し、粒状に砕けたお骨にも似た酢飯に、海鮮の産物を合わせたものが握りである。シャリは骨、ネタは肉、醤油は血である。お釈迦様の聖体をありがたくいただく儀式が寿司には含意されていることを意識している人はそう多くはない。

シャリは骨、ネタは肉、醤油は血

シャリは骨、ネタは肉、醤油は血

連載第10回へ進む

連載第8回へ戻る

プロフィール

島田雅彦(しまだ・まさひこ)
1961年、東京都生まれ。作家・法政大学教授。東京外国語大学ロシア語学科卒業。在学中の83年に『優しいサヨクのための嬉遊曲』で注目される。『夢遊王国のための音楽』で野間文芸新人賞、『彼岸先生』で泉鏡花文学賞、『退廃姉妹』で伊藤整文学賞、『カオスの娘』で芸術選奨文部科学大臣賞、『虚人の星』で毎日出版文化賞を受賞。ほかの著書に『天国が降ってくる』『僕は模造人間』『彗星の住人』『悪貨』『ニッチを探して』『オペラ・シンドローム』など多数。2010年下半期より芥川賞選考委員を務める。

関連書籍


「スキ」してくださり感謝です♪
18
多彩な執筆陣による連載小説・エッセイ、教養・ノンフィクション読み物や、朝ドラ・大河ドラマの出演者や著者インタビューなどをお届けします。新刊情報も随時更新。ときどき編集部裏話も!  *NHK出版HP → https://www.nhk-book.co.jp/