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「NHK出版新書を探せ!」第1回 なぜ日本は自粛のお願いしかできないのか――大屋雄裕さん(法哲学者)の場合〔前編〕

 突然ですが、新書と言えばどのレーベルが真っ先に思い浮かびますか? 岩波新書、中公新書、講談社現代新書……そこでNHK出版新書を挙げる人は、なかなかにマニアックな方だと言えるでしょう。老舗の新書レーベルにはまだ敵わなくても、もっとうちの新書を知ってほしい! この連載は、編集部のそんなささやかな抵抗から生まれました。題して「NHK出版新書を探せ!」。今を時めく気鋭の研究者の研究室に伺って、その本棚にある(かもしれない)当社新書の感想とともに、先生たちの研究テーマや現在考えていることなどをじっくりと伺います。コーディネーターは当社新書『試験に出る哲学』の著者・斎藤哲也さんです。

<今回はこの人!>
大屋雄裕(おおや・たけひろ)
1974年生まれ。慶應義塾大学法学部教授。東京大学法学部卒業。同大学院法学政治学研究科助手、名古屋大学大学院法学研究科助教授・教授などを経て現職。専門は法哲学。著書に『自由とは何か――監視社会と「個人」の消滅』(ちくま新書)、『自由か、さもなくば幸福か?――二一世紀の〈あり得べき社会〉を問う』(筑摩選書)、『裁判の原点――社会を動かす法学入門』(河出ブックス)。『法解釈の言語哲学』(勁草書房)など。

ロックダウンと日本国憲法

――現在、新型コロナウイルスの拡大に対する政府の対応について、連日、さまざまな議論が飛び交っています。今日は、そういった議論から浮かび上がる、日本の法システムが抱える問題について、法哲学者の大屋雄裕さんにお聞きしたいと思います。
 日本では4月7日に、新型インフルエンザ等対策特別措置法の改正法にもとづいて、緊急事態宣言が発令されました。ただ、その中身を見ると、外出自粛、学校の休校、イベント自粛などを要請するもので、海外のロックダウンのように、強制力のある禁止措置ではありません。
 まず素朴な疑問なんですが、民主主義的な国家で実施しているロックダウンは、それぞれなんらかの法的根拠にもとづくものなのでしょうか。

大屋 たとえばアメリカ、イギリス、フランス、ドイツあたりを想定すると、これらの国でとられている強制措置は、当然ながら法的な根拠があります。法的な根拠と言った場合、根拠の強さについてはさまざまです。しかし基本的に強制措置は、平時には保障されている人権の強力な制約を伴うわけですね。とくに移動の自由は基本的人権の重要な権利の一つだと位置づけられていますが、それを止めてしまう。営業活動の自由もそうです。そのためそれらを制約する強制措置は、憲法に根本的な基礎を持っています。
 ただ、憲法には一定の条件でそういう私権制限をしてもいいという規定が置かれているだけで、個々の具体的な措置については、個別の法律に規定されているのが一般的です。あるいは、行政権の委任命令でやってよいというケースもあろうかと思います。

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(MISHELLA / Shutterstock.com)

――日本の場合、その是非は置いておくとして、強制措置を伴うロックダウンが難しいのは、根本的には日本国憲法に根拠とする条文がないからなのでしょうか。

大屋 そういうことです。ただ、絶対にできないとは言い切れなくて、たとえば13条の幸福追求権を根拠にして、一定の私権制限ができないわけではないと思います。

――「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」の「公共の福祉に反しない限り」というくだりですね。

大屋 ええ。しかし元々日本国憲法体制上、ここを根拠にした私権制限は非常に例外的だと位置づけられてきたし、非常に抽象的な条文しかないわけです。その抽象的な条文にもとづいて、制度として具体化するためには個別の法に落とし込むことが必要です。でも、そういう法律を作ることには極めて抵抗が強くて、これまでやってこなかったんですね。
 その背景には、戦前の大日本帝国憲法体制の拒絶があります。大日本帝国憲法で規定している非常時の体制は、少なくとも当時の水準でいうと世界標準に近い。たとえば関東大震災のときには、緊急勅令で対応しています。議会が作動しない、あるいは議会に任せることができないときには、天皇大権で処理をするという規定があったわけです。
 緊急勅令で戒厳を布告したという点では、関東大震災と二・二六事件のときの対応は大して変わりません。軍事的な非常時も、災害としての非常時も、あるいは富山の米騒動のような社会紛争としての非常時も、同じ枠組みで対処していた。しかしその中で、無政府主義者の大杉栄を連行して虐殺した甘粕事件のような権限の濫用も発生してしまいました。
 そういった事件への反省もあり、戦後憲法は、非常時体制をことごとく廃絶したわけです。とくに戦争というものを憲法上認めない。平時から戦時に移行することを許さない憲法になったため、戦時体制の欠如の巻き添えになって、非常事態法制もない。それが、現在見られるお願いや要請しかできない非常事態宣言に帰結しているわけです。
 一般的な国家の場合、戦時の法制度を流用して非常事態に対処します。国家緊急権というのは内向きも外向きも同じものだった。それを、外向きをなくしたので内向きもなくなりましたというのが、日本の現状です。

「お願いベース」で危機に対応する国、ニッポン

――大屋さんは、SARSの流行などを念頭におきながら「パンデミックと他者への信頼」という小論を書かれています(「法学セミナー」2015年4月号)。それを読むと、国家的な危機状況への対応には、典型的にリヴァイアサン型とアーキテクチャ型の二つがあると説明しています。
 リヴァイアサン型は強権の発動ですね。有無を言わさず隔離するといった強制措置をとる。もう一つのアーキテクチャ型は、大屋さんの言葉を借りれば「自動化された空間的分離」です。たとえば、ドアを開けようとした時点で体温・呼吸などがチェックされて、引っかかるとドアが開かない。そうやってあらかじめ物理的な設計によってリスクを封じ込める。
 しかしこのどちらも、法の居場所がないことを指摘したうえで、「パンデミックが問うのは、我々が不安に打ち勝って統治への意思を、主権者としての責務を負い続けることができるかという問題なのである」と結んでいます。

大屋 あの小論を書いた段階では、むき出しの暴力を使うリヴァイアサンと、アーキテクチャによって物理的に人々を服従させていく主体というのは重なっていなかったんですね。たぶん、今の時点だとその両者が複合したところに中国が位置するように思います。だから現在は、リヴァイアサンとアーキテクチャは、むしろ一体になって作動しやすくなっているわけです。
 これらに対して、法の居場所を与える統治、いわば「責任を問われるリヴァイアサン」というものがあります。その場で強い権限を与えざるを得ないけれども、事後的に、それが適切だったかどうかの検証がされ、間違っていたら、事後的に責任が問われる。民主政が機能していれば、こういうタイプの統治を非常事態でも行うことができる。欧米の緊急事態法制はおおむねこうした考えに則っているわけです。
 そのもっとも極端なところにいるのがアメリカです。欧米的な緊急事態法制をとっているはずだけど、国民があまり言うことを聞かない。コロナウイルスはフェイクだと言って、デモを始めてしまう。これは個々人の自己決定を最大限尊重するモデルです。自分の幸福については各人が一番よくわかっているから、各人の自由を最大限保障することがその人の幸福の最大化になり、ひいては社会の幸福の最大化になるという図式ですね。
 こういう「自由と幸福のマリマージュ」モデルのアメリカから、責任を問われるリヴァイアサン型のヨーロッパ、アーキテクチャと一体化したリヴァイアサンで強権発動する中国までのラインを引いたときに、その一直線のラインに乗らない日本という謎の国家があるわけです。
 法的な権限をもって統治するのではない。じゃあ、個々人の自己決定を信じているかというと、信じてない。しかし全然信じてないかというと、お願いをしたら聞いてくれるぐらいの判断力はあてにしている。かといって、あらかじめ私の言うことを聞いてください、権限をくださいと言うと怒られる。

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(Talukdar David / Shutterstock.com)

――欧米にかぎらず、世界各地でコロナウイルスの対策が行われていますが、そのなかでも日本のような対策はかなり例外的と見ていいんでしょうか。

大屋 はっきり言って異常だと思いますね。それは欧米もそう思っているでしょう。要するに強権発動の度合が小さすぎる。小さくてパニックを起こしている。ただ、それで感染爆発が起きているなら驚かないんだけど、欧米に比べ死者数は少ないし、それなりに買い物や飲み食いもしているし、あいつらなんなんだと。
 「アジア・タイムズ」という香港メディアでは、「今の日本はジャンクフードをバカバカ食べているのに痩せている女の子みたいで、そういう子は無視されるか嫌われる」という識者の言葉を載せています。アメリカの退役軍人の言葉ですね。

緊急事態条項はすぐに導入すべきか

――世界的にみると、中途半端な非常事態宣言しかできないことを問題視して、国家緊急条項を憲法に加えるべきだという主張があり、それに反対する主張も出ています。この点についてはどうお考えですか。

大屋 私は、コロナの終息後に、議論をしたほうがいいという立場です。騒動の最中に議論するのはやめたほうがいい。やはり国民の権利保護に関わるような問題を拙速に議論するのはまずいと思います。
 仮に欧米のように、死者数が膨れ上がってロックダウンしなければならない状況になった場合でも、非常に厳格な時限立法にすべきです。たとえば3カ月、6カ月という期間を区切る。期間が過ぎたら、中身はチャラにして、白紙からもう1回議論し直すというのならありえなくはないですが、私はどちらかといえば、それもやめておけという立場です。

――終息後にはどのような議論が必要でしょうか。

大屋 ロックダウンができるぐらいのことを考えようと思うと、さきほど言った憲法の一般条項を根拠にするやり方は非常に筋が悪いんです。幸福追求権や基本的人権の尊重、法の下の平等といった一般条項はいくらでも解釈のしようがあって、明確な制約を掛けにくいんですね。ロックダウンが幸福追求権の侵害にあたるかどうかは、簡単に白黒つく問題ではありません。だからもう少し具体的な規定が必要です。
 たとえば憲法上、緊急事態は6カ月が単位で、最大2年までの延長しかできないとしておけば、2年と1日になった段階で、なぜ続いているのかと問いただすことができる。こんなふうに最低限の枠組みと、非常時に緊急事態を宣言してもこれだけはやってはいけないことを決めておく。最も典型的には、緊急事態で憲法改正をやってはいけない。あるいは、緊急事態法自体の改正をやってはいけないというような制約をかけることは必要でしょう。
 緊急事態だと言って、全権委任して何をやってもいいということになったら、ナチスの全権委任法のようになってしまう。そうならないようにするためには、例外事態をつくるならつくるで、例外事態の外枠を、誰が見てもわかるような形で憲法に明文化したほうがいい。その意味で、最低限の憲法改正は考えたほうがいいというのが私の意見です。

〔後編(第2回)へ進む〕

*取材・構成:斎藤哲也/2020年4月23日、リモート取材にて収録

プロフィール

斎藤 哲也(さいとう・てつや)
1971年生まれ。ライター・編集者。東京大学文学部哲学科卒業。ベストセラーとなった『哲学用語図鑑』など人文思想系から経済・ビジネスまで、幅広い分野の書籍の編集・構成を手がける。著書に『もっと試験に出る哲学――「入試問題」で東洋思想に入門する』『試験に出る哲学――「センター試験」で西洋思想に入門する』がある。TBSラジオ「文化系トークラジオLIFE」サブパーソナリティも務めている。

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