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エッセイ「空想居酒屋 〔世界の屋台に立つ〕」島田雅彦

 感動の美酒に、死ぬまでにもう一度食べたい逸品の肴……。島田雅彦さんが体験してきた酒場天国の数々をコトバで再現し、「こんな酒場で飲みたい」という欲望を“善きドリンカー”たる読者と共有しながら実際に「空想居酒屋」の開店を目指す、至極の酒場エッセイ。
 ※本記事は連載第18回です。最初から読む方はこちらです。

 思うように海外に出かけられないまま長い時間が経過してしまった。政府主導の利権漁りの一環で「Go To」キャンペーンで日本国内の旅行の出足が戻りつつある中、思いは海外の絶品料理に飛ぶ。旅先では市場巡りを欠かしたことのない私が一番恋しいのは何かと聞かれれば、もちろん市場の飯、地元に根ざした屋台の飯と答える。春休みには台湾と韓国を交互に訪れるのが近年の恒例になっていたが、それも叶わなかったので、先ずは台湾の屋台に思いを馳せつつ、「エア呑み」をしたい。
 台湾のどの町にもある夜市は確立された一つの文化といっていい。毎日開かれる縁日、常設のフェスティバル会場といった雰囲気の夜市は市中のレストランと見事な棲み分けが行われていて、早めに店じまいしてしまうレストランに行きそびれた人は自ずと夜市を目指すことになる。午後九時過ぎくらいから店が開き、深夜まで賑わう夜市にはあらゆる屋台が集結している。臭豆腐の臭いが立ち込める中、海鮮料理、臓物料理、スープ料理、串焼き、饅頭、かき氷とあちこちに目移りし誘惑され、挙動不審な動きをしている自分に気づく。
 醤油で煮た豚の内臓の各部位を売る屋台を夜市ではよく目にするが、西荻窪には「珍味亭」という名店がある。大鍋で煮込まれた耳、豚足、ガツ、カシラ、タン、ハツ、コブクロ、バラなどをスライスしたものをニンニク醤油で食べながら、ひたすら酒を呑む。メニューはほかにビーフンと手羽先、煮卵くらいしかない。ビールで喉を潤した後は度の強い白酒をリズムよく呑みながら、管を巻くのがこの店に似つかわしいスタイルか? 台湾における豚足は、専門店、チェーン店もあるくらい定着しているが、通は後ろ足の肉球部分を好んで食べる。ゼラチン質豊富なこってりとした豚足には豚のだしであっさりとした大根のスープが欠かせない。
 台湾は食いしん坊の好奇心を刺激してやまない料理の宝庫であるが、かなり広く浸透している屋台料理に麺線(ミェンシェン)というのがある。これはモツとかつおダシのスープで短い素麺状のヌードルが煮込まれている。とろみがあり、だしの風味が絶妙なのだ。消化もよく、腹にもたれることはない。また魚の頭スープはその名の通り、白菜などの野菜がたっぷり入ったスープに油で揚げた掌よりも大きな魚の頭が入っている。これは地方の屋台料理なのだが、その店を継いだ娘がシステムを一新し、通信販売にまでビジネスを広げている。牡蠣のオムレツ、切り干し大根のオムレツは台湾の二大卵料理だし、ワンタンメンや牛肉麺への台湾人のこだわり方は日本のラーメン通に匹敵する。台湾では朝食も屋台で食べられる。粥と油条、温かい豆乳の組み合わせほど食道楽の都で迎える朝にふさわしいものはない。豆腐料理も様々にアレンジされており、出来たての豆腐に各種のトッピングやソースをかけて食べたり、シロップをかければ、デザートにも展開できる。また揚げ豆腐や干し豆腐、湯葉の加工食品も豊富で、コンビニでもつまみの定番として、甘く、あるいは甘辛く味付けしたものが売られていて、ホテルの部屋で飲む際のお供になる。
 粥と豆乳を出す店はチェーン展開もしており、どの町にも支店がある。ファーストフード店のように明るく、清潔で、安っぽい店内には、デパ地下の惣菜売り場のようにおかずが並んでおり、客は好きなものを皿に盛り、レジで精算してテーブルに持ってゆく。魚の切り身を蒸したものとか、姫竹のナムル風とか、ニンニクの効いたたたきキュウリとか、腐乳とか、各種豆腐加工食品など三十種類にも及ぶ。時間を惜しみながら朝食を取っている店に長居して朝から酒を呑みたくなる。
 夜市にはカラスミだけを売っている屋台もあった。土産に買ってゆく人ばかりでなく、ここでは薄切りの大根とニンニクの葉の上に炙って分厚く切ったカラスミを乗せたものを店頭でも出していた。ここは素通りできないと思ったが、酒は出していない。夜市の屋台は食べる専門で、基本、酒を置いていない。台湾の成人の飲酒率は十パーセント程度で、韓国や日本と較べると、かなり低い。コーラでカラスミなんてミスマッチもいいところなので、最寄りの酒屋、コンビニでビールや紹興酒、あるいは白酒を買ってきて、屋台の隅を借りて呑んだ。これもまたミニマムな居酒屋である。メニューはカラスミオンリー、客はここで前菜としてカラスミをつまみながら、アペリチーフのワインや日本酒を呑み、メインは別の店に食べに行く。カラスミを炙るための七輪一つと、包丁、まな板、組み立て式のカウンターテーブル、これだけのインフラですぐに開業できる。
 厚焼きたまご専門店なら京都の錦市場にあるし、鶏の唐揚げ専門店は大分県のみならず全国にあり、酒も呑めるたこ焼き店といえば、「銀だこ」が全国展開している。カラスミ屋台に倣って、まだ巷に存在しない一品限定の酒場を続々開店させるのも面白そうだ。例えば、かまぼこ食堂、鯛の昆布締め屋台、しめ鯖酒場、コロッケ専門店、ハムカツ・バー、イカフライ・バー、焼き豚酒場、沢庵居酒屋、ぬか漬屋台、冷奴酒場など無数に考えられる。
 起業、起動のことをスタートアップというが、それなら屋台は古くからスタートアップの典型だった。外食産業で成功を収めた人も屋台から始めたという話をよく聞く。ラーメン、餃子はその最たるものだ。最初の店が繁盛すれば、支店を出してみたくなるもので、野心旺盛ならさらにチェーン展開、世界進出というコースを辿る。ネットでの情報拡散、コマーシャル戦略により、拡大や撤退のテンポが加速している感がある。

台湾の屋台。これで酒があれば…

台湾の屋台。これで酒があれば…

 ソウルで一番古い市場は広蔵市場(クァンジャンシジャン)だが、ここは私のお気に入りで、毎回必ず訪れる。名物屋台、横丁がたくさんあって、とりわけ有名なのがユッケ横丁である。メニューはごま油、醤油、砂糖、コチジャン、梨などで甘辛く調味された牛の生肉とセンマイの刺身しかない。どれも大盛りで、一皿二百グラムはある。やや勇気が必要で、思い切って食べてみたが、なんともなかった。市場のメインの通りは屋台だらけで、人も多く、荷物を積んだバイクも通るのでカオス状態だが、アジュンマの手招きで、ピンデトックの屋台に入る。これは豆を石臼で挽き、もやしなどと一緒に油で揚げ焼にしたチヂミの一種だ。肉などは入っておらず、キムチと一緒に食べる。値段も安く、私が食べた時は一枚四千ウオン(約四百円)だった。その隣にはビビンバ専門店があって、十数種類の野菜を自分の好みで選ぶと、五穀米とタレを入れてくれるので、自分でよく混ぜて食べる。どちらもベジタリアン仕様になっていて、すんなりと腹に収まる。またここに来たら、必ず買って帰るのが麻薬キンパブと呼ばれる海苔巻きである。通常のものより小ぶりで、一口サイズになっており、中身もキムチだけというシンプルなものだが、名前の通り、やめられなくなる。完璧に炭水化物祭り状態で、これ以上は食べられないところだが、ここのカルグックスを食べずに去るのは惜しい。韓国式のうどんであるが、煮干しのだしが胃に優しく、付け合わせのキムチが調味料の役割も果たす。がっついて食べていると、「うどんもう少しあげようか」とアジュンマが声をかけてくれる。この店のアジュンマは広蔵市場では新参者で、古参の人にかなりいじめられもしたらしいが、めげずに頑張り通し、息子を大学まで進学させたことが自慢だ。

ピンデトックの屋台

ピンデドックの屋台から逃れられない

 インドはデリーやコルカタでも屋台に足を運んだ。牛肉を食べないヒンズー教徒、豚肉を食べないムスリムが人口の多くの割合を占めるので、ここでは羊とチキンが中心になる。マックではベジタリアン用に豆のバーガーがあるし、ビーフの代用は羊肉だと聞いた。町にピッツァ店ができ、その広告を見て、一度でいいから食べてみたいと憧れを募らせた少年が大人の手伝いで小遣いを稼ぎ、食べに行こうと努力するというインド映画を見たことがあるが、念願叶ってピッツァを口にしたその少年は「あんまり美味しくない」と呟くオチに笑った。インドではカレーもサモサもチョウメンも全て屋台で売っているが、制服のウェイターがサーブするレストランよりよほど美味いのだ。コルカタでは珍しいビーフカレーを見つけ、素焼きの壺に入れてもらい、ホテルに持ち帰り、やはり屋台で買ったサモサやナンで夕食を取ったことがあった。スラムにはチョウメンの屋台が出ていて、食べてみたが、悪くなかった。ソース焼きそばそっくりのチョウメンはインドの隠れた国民食といっても過言ではないくらいポピュラーだ。大都市には中華料理店も多いが、酢豚もエビチリも全ての料理をカレーのようにご飯に混ぜて食べているインド人を見て、結局それが一番美味いのかもと思った。
 インドは国産の酒が種類豊富であることは意外と知られていない。一日の決まった時間にのみ開店する酒屋で色々仕入れたが、ジン、ラム、ウイスキー、コニャック、ワイン、ビールと全て揃っている。それらも地酒というのだろうが、「インディアン・フォーリン・リカー」と総称されていた。日本の洋酒各種みたいな感覚だ。やけに色の濃いラムとウイスキーがこってりとした風味があり、コスパもよく、またカレーとの相性も抜群だった。

 今まであれこれ、飲食についての能書きを垂れてきたが、空想居酒屋も閉店が近づいてきた。そろそろ空想を実現しなければならない。次回と最終回は空想居酒屋の進化形である「何処でも居酒屋」を開店し、実際につまみを作り、酒を呑む。だから、これが最後のエア呑みとなる。
 最近、友人が急性膵炎と診断され、入院した。しばしば深酒に付き合わせたので、私も共犯者であり、他人事とは思えなかった。その友人は医師から「生涯断酒」を勧告され、落ち込んでいた。医師は時に残酷な宣告をするが、膵炎の場合、少量の酒でも炎症のトリガーになるらしい。友人は今後、エア呑みの達人になるしかないのだろうが、本稿はその助けになるはずである。想像力豊かな人はお茶でもジュースでも、白湯でも酔うことができる。ドクターペッパーをカクテルグラスに注げば、スイートベルモットと勘違いできる。実際、薄い酎ハイレモンとレモン入りの炭酸水はほとんど味は変わらないから、アルコールに執着せず、病みつきになるノンアルコール・ドリンクを開発すればいいのだ。

連載第19回へ続く

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プロフィール
島田雅彦(しまだ・まさひこ)

1961年、東京都生まれ。作家・法政大学教授。東京外国語大学ロシア語学科卒業。在学中の83年に『優しいサヨクのための嬉遊曲』で注目される。『夢遊王国のための音楽』で野間文芸新人賞、『彼岸先生』で泉鏡花文学賞、『退廃姉妹』で伊藤整文学賞、『カオスの娘』で芸術選奨文部科学大臣賞、『虚人の星』で毎日出版文化賞を受賞。ほかの著書に『天国が降ってくる』『僕は模造人間』『彗星の住人』『悪貨』『ニッチを探して』『オペラ・シンドローム』など多数。2010年下半期より芥川賞選考委員を務める。
*島田雅彦さんのTwiiterはこちら

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