見出し画像

京都御所は、なぜあれほど巨大なのか!? 「1200年の都」の知られざる歴史を探る

 世の中には、当たり前のことすぎて普段は気にも留めないけれど、よくよく考えると「??」というものがたくさんあります。たとえば、京都御所と京都御苑。京都のど真ん中に、あれだけ巨大なスペースがあるって不思議ではないでしょうか? じつはそこには京都・天皇・武士をめぐる、1200年の知られざる歴史が隠されていたのです――。
 当記事は、2020年6月10日発売の桃崎有一郎著『京都を壊した天皇、護った武士――「一二〇〇年の都」の謎を解く』から一部を抜粋・再編集してお届けするものです。

小さな仮住まいがなぜ肥大化していったか

 現在の京都御所は、仮設の内裏というにはあまりに巨大で壮麗だ。そもそも、京都御所を取り囲む京都御苑の広さが尋常でない。南北約一二七〇m×東西約六九〇mもあり、東京ドームでいうと一九個分にもなる。その御苑の一部を占めるに過ぎない京都御所さえ、南北約四五三m×東西約二五四mの規模を誇り、これも東京ドームでいうと二・五個分もある。仮設の内裏がそこまで巨大化するというギャップは、何を意味するのか。
 実は、京都御所は最初からあのような巨大建造物ではなかった。京都御所は本来、「土御門殿(つちみかどどの)」と呼ばれる内裏だった。「殿」は貴人の邸宅を意味し、本来それは名前の通り〝土御門大路に面する貴人の邸宅〟に過ぎなかった。それが内裏となったのは、建武三年(一三三六)に光明天皇が、この邸宅で践祚(皇位継承)した時からだ。
 専門家は、前の時代の内裏と区別するために「土御門内裏」とも呼ぶが、そうした区別は、当時の人々には不要だった。土御門内裏の出現以降、明治維新まで一度たりとも、ほかの内裏が存在しなかったからだ(再建工事中の仮住まいは除く)。人々は土御門内裏をただ「内裏」とか「禁裏」と呼んだ。今、それをわざわざ「京都0 0 御所」と呼ぶのは、明治維新で天皇が東京の「皇城(宮城)」(現在の「皇居」)に住み、五世紀ぶりに内裏が二つに増えた結果、区別の必要が生じたからである。
 その土御門内裏は、とにかく狭い。正方形の区画を敷き詰めて〝碁盤の目〟にたとえられる平安京では、一つの正方形の土地を一町といい、面積は約一二〇m(四〇丈)四方である。その単位で数えると、土御門内裏の広さは当初、半町(一町の半分)しかなかった。それが、室町時代と江戸時代に何度か拡張され、今の規模になったのである。
 今の京都御所は、繰り返すが南北四五三m×東西二五四m(一一五〇六二㎡)もの広さがある。「町」単位でいうと、南北三・五町×東西二町ほどだ。これに対して、成立当初の土御門内裏は南北〇・五町×東西一町(約六〇m×約一二〇m=七二〇〇㎡)しかない。現在の京都御所と面積を比べると、何とわずか六%あまりである。室町時代初頭の応永九年(一四〇二)に足利義満が二倍に拡張したが、それでも現在の一三%にすぎない。
 平安京の造営当初に造られた、大内裏の中の本来の内裏(大内)と比べても小さい。本来の内裏は、南北一〇〇丈×東西七三丈(三〇〇m×二一九m。六五七〇〇㎡)と伝わる(『大内裏図考証』六─ 内裏所引『南部所伝大内裏一古図』)。今の京都御所の三分の二しかないが、それでも広い。成立当初の土御門内裏の面積はその一一%しかなく、義満が二倍に拡張した後でも二二%しかなかった。
 重要なのは、江戸時代に肥大化し始めるまで、何と二七五年もの間、内裏が一町以下という小ささを保ったことである。その時間は江戸幕府の寿命とほぼ同じで、それほど長くその姿だったのなら、それを一時的な仮の姿と見ることはできない。中世以降、内裏とはそういうものだったのであり、それが必要にして十分な大きさだった、ということだ。

誰が京都と内裏を維持し、誰が破壊してきたか

 これはいい換えれば、その程度の広さの宮殿しか必要としないほど、朝廷と天皇の果たした役割が小さかった、ということでもある。中世を通じて、武士の権力闘争は激しさを増す一方、天皇の権威は縮小の一途をたどったのだから、当然だった。
 さらに近世に入ると、江戸幕府は元和元年(一六一五)の「禁中并公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」で、史上初めて天皇の責務を法で縛った。また寛永六年(一六二九)の「紫衣事件」では、天皇が自由に恩典を与える権限を幕府が否定し、天皇の力は制限される一方だった。力がなければ大きな仕事はできない。それなら大きな仕事場(内裏)も必要ないのが道理である。
 すると、我々は次の謎に直面し、当惑させられる。京都御所が二七五年間もその小ささで満足していたなら、なぜ一七世紀初頭から肥大化を始め、今の大きさになったのか。その拡大は急激で、最終的には一六倍にもなった。ここまで規模が違えば別物である。
 しかも、御所が急拡大を始めたのは、ちょうど「禁中并公家諸法度」の制定や紫衣事件があった時期と重なる。天皇の力が削られてゆく時期に、反比例して天皇の住居が急拡大を始め、まるで天皇の権威が増したかのような景観を呈するのは、あまりに逆説的ではないか。力のない天皇が、なぜ巨大宮殿を造営できたのか。
 その謎を解く鍵が武士である。京都御所(土御門内裏)の拡大にとって重要なのは、実は天皇の権威や権力ではない。重要なのは武士、正確には武士の政権である幕府の権威や権力であり、その増大に伴って京都御所は肥大化した。その関係こそ京都御所の本質である。
 では、一体なぜ、そのような関係になったのか。『京都を壊した天皇、護った武士――「一二〇〇年の都」の謎を解く』では、その謎に迫ることで京都一二〇〇年の知られざる歴史を明らかにしたい。

※続きはNHK出版新書『京都を壊した天皇、護った武士――「一二〇〇年の都」の謎を解く』でお楽しみください。

プロフィール
桃崎有一郎(ももさき・ゆういちろう)
歴史学者、高千穂大学商学部教授。1978年、東京都生まれ。2001年、慶應義塾大学文学部卒業。2007年、慶應義塾大学大学院文学研究科後期博士課程単位取得退学。博士(史学)。現在、高千穂大学商学部教授。専門は、古代・中世の礼制と法制・政治の関係史。著書に『「京都」の誕生』(文春新書)、『室町の覇者 足利義満』『武士の起源を解きあかす』(ともにちくま新書)、『平安京はいらなかった』(吉川弘文館)など。

関連コンテンツ

※「本がひらく」公式Twitterでは更新情報などを随時発信中です。ぜひチェックしてみてください!

みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!