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最初の女帝・推古天皇、その正体とは?――周防柳「小説で読み解く古代史」第12回(謎4 その3)。

本がひらく

「邪馬台国はどこか?」に代表されるように、日本の古代史はいまだ解明されない謎ばかり。そのため、吉川英治や松本清張をはじめ、たくさんの作家がインスピレーションを掻き立てられては物語を書き、あるいは持論を展開してきた。本連載では、日本史を舞台にした作品を多く手掛ける著者が、明治・大正・昭和の文豪から平成・令和の小説家まで、彼らが描いた「歴史的なあの場面」に焦点をあて、諸説を紹介しながら、自身もその事件の背景や人物像を考察していく。作家ならではの洞察力と想像力を駆使して謎に挑むスリリングな古代史企画。
*第1回から読む方はこちらです。


謎4 馬子と推古と厩戸皇子 (その3)

仏教おたくのひきこもり

 それでは、先の回(謎4その1)で言いさしになった、厩戸皇子うまやどのみこについて個人的に考えていることを少し述べたいと思います。
 この皇子については、数年前に『高天原たかまのはら――厩戸皇子の神話かみばなし』という小説を書いたときに四苦八苦したので、一種の身内のような親しみがあります。
 わが国最古の史書といえば、皆さんもよくご存じの『古事記』ですが、それより前に、厩戸皇子と蘇我馬子そがのうまこが編纂した『天皇記』『国記』なるものが存在したという言い伝えがあるのです。二人がこれに取り組んだのは六二〇年といい、厩戸皇子はその二年後に、馬子は六年後に没します。その後は編纂を手伝っていた船史ふねのふひとによって守られていたらしいのですが、現存していません。そこで、その幻の史書の内容がどのようなものだったかを想像してみたのが、この物語なのです。

周防柳『高天原』(集英社文庫)

 その史書には、『古事記』の原形となるような「創世神話」が記されていたのではなかろうか。その神話の中では、時の大王である推古すいこ女帝をモデルとして高天原のアマテラス女神が創造され、大臣馬子をモデルとしてアマテラスの参謀さんぼう高木たかぎの神(タカミムスビ)が創造され、厩戸の子であり、馬子の孫である山背大兄王やましろのおおえのおうをモデルとして、高天原から地上に降るニニギノミコトが創造されていたのではなかろうか――。
 そんな曲芸めいたことを書いてみました。もちろん、神話を考えたのは厩戸皇子という設定です。史料的な裏づけはなにもありません。
 この小説において、私は厩戸皇子をまるきり政治性のない、あるいは政治的なことを極端に忌避している皇子として描きました。社交にも縁がなく、なんなら女にも興味がなく、俗的なこととはいっさいかかわりたくない。いまでいう「おたく」です。だからといって無能なわけではなく、学問的には天才で、仏教、儒教の造詣ぞうけいはめっぽう深い。理想も高い。しかし、世渡りはうまくない。やや失礼かもしれませんが、そんな人物であるからこそ、あの馬子との衝突も回避し、コンビを組めたと考えたのです。
 飛鳥あすかを離れて斑鳩いかるがに引っ越したのも一種の隠遁いんとんで、「ひきこもり」に近かったというのが、私のイメージです。
 先ほど聖徳太子否定説にのっとって書かれた小説はほとんどないと申しました。もしかしたら、この本がいちばん否定説に近いかもしれません。
 テーマの設定上、厩戸皇子のすべての人生、すべて事績に触れたわけではないのですが、作品を書くうえで想定したことを、以下に記します。
 まず、厩戸皇子を推古朝の「皇太子」とは考えませんでした。皇太子とは、現大王が生存中に時期大王となるべき人物を決めることですが、この制度が有効になるのは持統じとう朝以降で、もう少し大まかにとらえるとしても、中大兄皇子なかのおおえのみこ嚆矢こうしではなかろうかと思うからです。
 「摂政せっしょう」であったとも考えませんでした。そもそも馬子が姪の炊屋姫かしきやひめを大王としたのは、傀儡かいらいとまではいわぬまでも、おのれの随意ずいいにできる主君を求めたからでしょう。だとすれば、その目論見もくろみをなし崩しにするようなポストをさらに新設したとは考えにくいのです。
 女性天皇というやや頼りない存在の補佐とするためだった、とよくいわれますが、厩戸皇子自身も若すぎたために大王位に就けなかったそうなので、その人物に「万機ばんき」(すべての政治的決定)をことごとく委ねるというのは矛盾のように感じます。逆に言えば、万機をことごとく委ねたいほど優秀な皇子ならば、若年であっても馬子が補佐して最初から大王に就ければよかったのではないでしょうか。前代未聞の女帝を立てることと、単なる年齢の壁と、どちらのハードルが高かったでしょうか。
 「冠位十二階」や「憲法十七条」といった大きな政策は、馬子主導で行われたのだろうと思います。とはいえ、学問的な知識の側面は、厩戸皇子がかなり力を貸したのではとも想像します。六〇七年の「日出ひいずるところの天子」の国書は厩戸の筆でしょう。
 厩戸皇子による経典注釈や講義は、一部を除いて、伝えられていることに近いと考えたいです。
 いちばんの鬼門きもんは、例の『隋書』「倭国伝」六〇〇年の記述、および、六〇八年に裴世清はいせいせいが対面したアメタリシヒコなる大王は誰かという問題です。これに関してはできれば避けて通りたいと頭を抱えるのですが、ぎりぎり馬子の可能性が高いのではないかと感じます。真実はわかりません。しかし、『隋書』の記述を読めば読むほど、それ以外にないように思えるのです。

『隋書』「倭国伝」より「アメタリシヒコ」の箇所

 もっとも、馬子が本当に大王位に就いていたわけではなく、女帝を認めていない相手をおもんぱかっての虚偽だったと、とりあえずは考えます。
 たとえば、「アメタリシヒコという名のオオキミ」に「キミと呼ばれる妻がいる」ところまでは、厩戸皇子でもおかしくないのです。が、「六、七百人もの女たちがいる後宮」は、まるで実態にそぐわないのではないでしょうか。数の誇張の問題だけでなく、当時、厩戸皇子はさして広くもない磐余いわれ上宮かみつみやに住んでいたはずなので、このような表現はそもそも出てこない気がします。
 さらに、「太子はワカンドオリという」も気になります。
 この場合の「太子」とは、ただ王の子のことではなく、きちんとした後継者を意識していて、実際にそういう存在がいたからこそ話題にあがっているように感じられます。しかし、厩戸皇子はこのとき二十七歳です。長男の山背大兄王の生年は不明ながら、おそらく幼児で、太子と呼べる存在ではなさそうです。
 一方、馬子を大王と想定して回答したならば、太子は蝦夷えみしとなります。あるいは、通説どおり厩戸皇子が皇太子であったのなら、ずばり厩戸皇子のことでしょう。
 では、六〇八年の裴世清との会見は、どのようになされたのでしょうか。
たしかに、大王を男性にみせかけたことは虚偽ではあります。けれども、推古天皇は女性であるがゆえに、どのみち御簾みすの内だったでしょうし、平時でも人前には顔をさらしていなかった可能性があります。これに対し、馬子は常から大王のように上座に座り、群臣から恐れられ、かしづかれていたのではないでしょうか。してみると、隋の使節団の前でも、さほど特別な芝居をしていたわけではないのかもしれません。
 正解はわかりませんが、これが『隋書』「倭国伝」の謎についてかろうじて想像するところです。

推古というワイルドカード

 最後に、推古女帝について少し触れて、終わりにしたいと思います。
 繰り返しになりますが、女性の大王は本邦初――、否、中国にも朝鮮三国にも例のなかった存在です。ゆえに、これを担いだ馬子の思い切りはなかなかのもので、たぶん反対の声が囂々ごうごうとあがるのを力ずくで押さえての突破であったと想像します。そして、結果的には三十有余年というまれにみる長期政権が実現したのですから、強硬突破は大成功であったわけです。
 それにしても、馬子はなぜ女帝の創出をもくろんだのでしょうか。稀代の策謀家ですから、そこにはそうとうの意図があったはずで、最大の理由は、大王家の外戚として位置を独占するためだったと私は思っています。
 大王に妃を入れて子を生ませ、藤蔓のようにからみついていく戦略は、仁徳にんとく朝に葛城かずらき氏が始めたことですが、その手法を欽明朝で稲目いなめがまねし、馬子の代に見事に花開きました。いったん成功してしまえば、他の豪族にはしばらく同じことをさせたくないでしょう。しかし、大王にわが娘を捧げんとする他氏の動きを完全に封じることは難しいと思います。であれば、大王のほうを女性にしてしまえばよいわけです。
 事実、推古女帝が位に就いて以降、にぎやかな飛鳥の中でも王宮のねやだけは真空地帯のように静かになりました。その意味では、『隋書』「倭国伝」に後宮の繁昌が記されているのはたいへんな皮肉です。当然ながら、女帝の長い在位のあいだ、新たな皇子は一人として生まれませんでした。寂しいといえば寂しいことです。けれども、そのおかげで馬子は万全の独裁体制を築くことができたのです。
 では、推古女帝その人は、どのような人だったのでしょうか。
 記紀を読む限りでは、「聖徳太子」の功績ばかりが目立ち、これといって強い印象はありません。政治的でもありません。かといって、馬子に操られるばかりの人形だったかといえば、それもしっくりこないのです。ときどきふっと顔をのぞかせる記述に鋭さがあり、独特の存在感を感じます。
 私がイメージするのは、非常に静謐せいひつながら、底のところにはがねのような粘りを秘めている女性です。もっと言えば、ずっと沈黙していて、最後の最後にすべてをひっくり返してしまう、ジョーカーのような存在です。
 それを如実に感じるのは晩年です。まず厩戸が亡くなり、続いて馬子が亡くなり、推古女帝が最後に残るのですが、そのとたん、長らく保たれてきた大王家と蘇我氏と上宮王家の均衡が崩れます。蝦夷と推古女帝の関係はぎくしゃくし、蝦夷と山背大兄王も不仲になります。推古女帝はみずからの後継者として、微妙な表現によって田村皇子たむらのみこ(舒明天皇)を希望してみまかり、それまで火が消えたようになっていた欽明きんめい直系の血筋が、ほのかに息を吹き返します。
 改めて系図を眺めてはっとすることがあります。たしかに推古女帝は母方から蘇我の血を受け継いでいて、蘇我系天皇としての側面が強調されがちですが、そもそも欽明天皇の子であり、夫も欽明の嫡子の敏達天皇です。つまり、蘇我系と欽明系のちょうど中間に位置し、どちらにも転べるキーパーソンであるわけです。

蘇我馬子・推古天皇・厩戸皇子の関係系図

 その強みを最後に生かして、蘇我氏に奪われていたものを取り返したともいえます。先にあげた小説の中では、三田さんがこれに近い感触を持っておられたと思います。
 女性をジョーカーと表現するのが適当でなければ、ワイルドカードを持っていた人とでも言いましょうか。そのカードによって転轍てんてつされた路線はやがて田村の子たる中大兄皇子を乗せて疾走し、蘇我氏は滅ぼされることになるのです。
 一般に、アマテラス女神は持統女帝に擬して藤原不比等ふじわらのふひとが創作したと言われることが多いです。とはいえ、記紀神話にみえるアマテラスは持統女帝のように激しい母性に動かされているわけではなく、戦略的な思考に富んでいるわけでもなく、たたずまいとしては、むしろ推古女帝のほうに近いように感じます。
 自分の考えを擁護するわけではありませんし、そもそもまったくの想像ではあるのですが、おなじみの「藤原不比等陰謀説」以外の可能性が成りたつとしたら、ちょっとおもしろい気はします。
 本連載のはじめにも申しましたが、小説は思考実験の場であり、仮説をシミュレーションするためのまたとない舞台でありますから。

次回(9月30日公開予定)に続く

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プロフィール
周防柳(すおう・やなぎ)

1964年生まれ。作家。早稲田大学第一文学部卒業。編集者・ライターを経て、『八月の青い蝶』で第26回小説すばる新人賞、第5回広島本大賞を受賞。日本史を扱った小説に『高天原』『蘇我の娘の古事記』『逢坂の六人』『身もこがれつつ』がある。

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