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コロナ禍がもたらした休日、そこで触れたひとの営み――「熊本かわりばんこ #12〔記憶の海を旅する〕」田尻久子

 長年過ごした東京を離れ故郷・熊本に暮らしの場を移した吉本由美さんと、熊本市内で書店&雑貨カフェを営む田尻久子さん。
 本と映画、そして猫が大好きなふたりが、熊本暮らしの手ざわりを「かわりばんこ」に綴ります。 ※#01から読む方はこちらです。

記憶の海を旅する

 正月を迎えたばかりのような気がするのに、もう梅の花が咲いているのを見かけるようになった。春はすぐそこ、早いものだ。

 数年前までは、元日以外はほとんど店を開けていた。大晦日は営業こそしていなかったが、お客さんたちと年越しをするのがいつの間にかお約束のようになっていた。店に行くので、結局、帰省のお客さんが顔を出したり、常連さんが「よいお年を」と声をかけに来てくれたりして、開けているのと大差なかった。
 もとはあった定休日を返上して休みなく店を開けていたのは、経営が苦しくなったからだ。もともと家賃が値上がりしたところに、隣の店舗まで借り増しして書店をつくってしまったのだから、自業自得。熊本地震後に店を引っ越したのだが、繁華街から少し離れたので家賃が下がった。それで、ようやく定休日をもうけることができるようになった。

 最近では、正月も人並みに休む。でも、それはコロナ禍がきっかけだった。帰省したお客さんが寄ってくださるかもと思うと、なかなか元日以外に休む気になれなかった。だがコロナ禍に見舞われた2020年の年末は、さすがに帰省する人が極端に減り、知り合いもみな帰らないと言うから、開けてもしょうがないかと三が日を休むことにした。おかえり、ただいま、と挨拶を交わすことのない年末年始となったのは、店を開いて以来はじめてのこと。お客さんとの年越しもせずに、家で静かに過ごした。

 2021年の暮れは、少し賑わいが戻った。年が明け、成人式を過ぎた頃から爆発的に感染者が急増するのだが、年末は感染者数が抑えられていたから移動する人が前の年より増えた。いつも通りとまではいかなかったが、ちらほらと帰省のお客さんが来店され、懐かしい顔を見せてくれた。それでも、PCR検査をしてから来たという人もいたし、大手を振って帰れるわけではない。みんな不安を抱えて、それでも、手土産を携えて会いたい人たちに会いに来る。家族で帰ってきた人たちは、子どもがずいぶんと成長していた。子どもにとっての2年は大きい。小さかった子どもが自分で絵本を読めるようになっていたり、まだまだ少年だと思っていた男の子が声変わりをして思春期へと突入したりしている。孫たちに会えなかった人たちの2年はさぞや長かったろう。孫を迎えるわけではない私でも、「おかえり、会いたかったよー」とむやみやたらと言いたくなった。

 暦を見ると年明けの休みは短く、帰省するお客さんも早めに帰りそうなので、今回も三が日は休むことにした。20年も店をやってようやく、正月休みを取る踏ん切りがついた。帰省中に来店したい人は店休日を確認するだろうし、どうしても来なければいけないような場所でもない。

 今回も年越しは集まらないので、少しは正月らしく過ごそうと、大晦日は家人と買い出しに行くことにした。まずは近所に見つけたお気に入りのスーパーに行ってみると、まだ昼過ぎなのにすでに値引きシールが貼りまくられている。安い安いとすっかりテンションがあがって互いに気になるものを買物カゴに放り込むのだが、お互い貧乏性なので、いつも買っているみりん干しとか、半額シールのついた明太子とか、大量に入ってもともと200円もしないのに、さらに割引になっているぶりのアラだとか、あまり正月感がないものばかり買おうとしていた。いつも食べないものを買わなきゃと、めでたい感じがするものを探す。カゴに入れたのは、海老にかつおのたたきに、子持ち昆布。でも、やっぱり全部割引になっていて、精算をすませると、こんなに買ってもこの値段と申し訳ない気持ちになる。店を出るときに貼り紙を見て、値引きになる時間がなぜ早かったのかわかった。三が日はしっかりと休む店だった。なんだかうれしいね、と貼り紙を見て言い合った。

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 昔は正月と言えば店が閉まるのは当たり前だった。正月は、めでたさと静けさが同居していた。いつの間にか、正月でも開いている店が増え、年が改まる感じがしなくなった。かくいう私も、以前は2日から店を開けていたのだから、言えたものではない。でも、コロナ禍になり、三が日を休むようになって、人間の営みはもっとペースを落とすべきなのではないかと自問するようになった。昔のような生活に戻ることは無理かもしれないが、歩みの速度を少し落とすぐらいのことはできる。

 家からそう遠くないところに、肉の専門店がある。地元のスーパーの次はそこへ向かった。祖母と何度か行った店だ。祖母が生きていた頃、大晦日にはおせち料理づくりを手伝いに祖父母の家へ行くのが常だった。時間の余裕があるときは、材料を買いに行くのにも付き合った。料理も買物も姉が主導権をにぎっており、私は下働き程度だったが。店をはじめてからは、年末は忙しかろうと手伝いを免除され、いつしか祖母はこの世を去った。最近、その頃のことを思い出すと、祖母の割烹着をもらっておけばよかったなと思う。手伝いに行くと、洋服が汚れないようにという配慮だろう、まずは「これを着なさい」と割烹着を渡された。洋服は汚れても構わなかったが、自分の家に比べると祖父母の家は寒く、割烹着を着ると暖かかったので言われるままに借りていた。何枚もあった祖母の割烹着はおそらくもう処分されてしまった。一枚くらいもらっておけばよかったといまさら後悔する。

 久しぶりに行ったそのお肉屋さんは、記憶の中より少しさびれていた。20年ほど行っていなかったから当たり前だ。心なしか狭くなったような気もする。お客さんは少なく、ショウケースもがらがらだったからそう感じたのかもしれない。引っ越しのときに家具を引き払った部屋を見ると、こんなに狭い部屋だったっけといつも思うのだが、それと似ている。

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 しかし活気がないわけではなく、「これから並べる商品はすべて4割引です」とお客さんをあおる店内放送がにぎやかに流れている。今日は大晦日だから早めに店じまいするのかな、それにしてもきれいさっぱり売ってしまうのだなと不思議に思っていたら、レジの横に「閉店のお知らせ」という貼り紙があった。

 当店は開業以来、皆様のご厚情により約40年営業を続けて参りましたが、建物および設備の老朽化に伴い、誠に勝手ながら2021年12月31日をもちまして閉店させていただくこととなりました。長い間、当店をご愛顧いただきましたこと深く感謝申し上げます。

 たまたま来たら、最終営業日だったのだ。安いねとうきうき買物していたのだが、途端に悲しくなる。同じ会社の店舗が他の地域にもあるし卸販売もされているので、廃業されるわけではないはずだが、思い出に残っている店がなくなるのはさみしいものだ。もしかしたら、コロナ禍の影響も少しはあるのかもしれない。

 祖母と買物したときの記憶がぼんやりとよみがえった。威勢よくどんどん買物カゴに放り込む人だった。かまぼこでも何でもいくつも放り込むので、姉とこっそり棚に戻していた。貧乏性は昔からだ。「久子もなんでん欲しかもんば買うとよかたい」と言われても、ひとつかふたつしか欲しいものを入れないから、「そっだけかい、もっと入(い)るったい」と祖母からいつもけしかけられた。普段はつつましやかな暮らしをしていたから、祖母にとっては、年末の買物からすでに「ハレの日」がはじまっていたのだろう。
 「恒例の行事」というのは、いつしか終わりが来るものだが、当時は若かったのでそんなことは考えもしなくて、ただただ面倒だった。でも、正月を迎える度に、祖母のおせち料理を思い出す。レシピを訊いておけばよかったと後悔する料理もある。いつか終わるのだから、機嫌良く、もっと祖母が喜ぶように甘えてみればよかったのだ。

 入ったときの意気揚々とした感じをすっかり失い、さみしい気持ちで店を出ると、その店のオリジナルらしき買物バッグを提げた小柄な老婦人が前を歩いていた。この人も店が閉まって残念だろう、今日は荷物もさぞや重く感じるだろうと心配になったのだが、駐車場に向かっていたので車でいらっしゃったのかと安堵する。向かった先の車は意外にもミニクーパー。さっそうと運転席に乗り、去っていかれた。心配無用だった。

 正月気分が少し遠のいたので、もう一軒別の店にも行くことにした。その店は私が中学生まで住んでいた街にある。またもや思い出の場所に足を踏み入れることになった。父が亡くなるまで住んでいた団地から、歩いて数分のところに店はある。真横には公園があって、その向こうには私が通っていた中学校もある。

 大晦日なので、駐車場が混んでおり行列ができていた。私はすっかり懐かしくなって、駐車場が空くのを待っている間に公園に行ってみようと先に車を降りた。記憶はあてにならない。とても広い公園だと思っていたが、そうでもなかった。それに、よく考えたら外で元気に遊ぶことなど得意ではなかったので、公園をひとめぐりしてもそんなに懐かしくはなかった。

 店に入って品物を物色していると、親子で買物をしている人の声が耳に入ってきた。年の頃は70代と思われるお父さんと息子さん。カゴに入った天かすをお父さんが棚に戻そうとしていた。

 「天かす、こがんいっぱい入っとるとば買っても食べきらんぞ」
 「俺が食べてしまうけん、大丈夫」
 「こがん、食べきらんだろうが」
 「食べるって」

 ちょっとした小競り合いをしていたが、結局天かすはカゴに戻されたようだった。こういう場面に出くわすと、勝手にあれこれ想像してしまう。いつも小さな言い合いをしている親子なのだろうか。それとも、今日はどちらか機嫌が悪いのだろうか。いや、言い合いというよりコミュニケーションかも。年越しそばを食べながら、「親父はいちいちうるさいんだよ、天かすぐらい好きに買わせて欲しいよ」と愚痴るのだろうか。

 そうして、これもいつしか思い出になる。この天かすにまつわる会話のその先にも彼らの人生は続き、いつしか終わり、誰かの記憶に残る。もちろん、天かすにまつわる些細な小競り合いは、彼らの記憶には残らないかもしれない。あまりにも些末なこと過ぎて。でも、私の記憶には残る。この親子の大晦日の買物の一場面は私の記憶とつながっているし、ここにこうして書いてしまったから忘れない。それは、私のいくつかの連続した記憶の一部となる。彼らのあずかり知らぬことだが。

 期せずして懐かしい場所をめぐることになったので、ついでに小学校のまわりも車で一周してみた。正門の壁には校訓が掲げてあり、「きよく やさしく たくましく」と書いてある。悪くないな、と思う。友達の家に行くのに乗り越えていた塀は思ったより低く、まわりの住宅街は住民たちとともに少しくたびれていた。もう住む人がいない家もあるかもしれない。街も人と一緒に老いていく。

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 ここに6年も通ったのに、たいして覚えていることもないなと思いながら、正門の写真を一枚撮って、ようやく家路についた。家にたどり着き、戦利品を次々と引っ張り出し満足する。年末の買物に出かけるだけのつもりが、ちょっとした小旅行でもしたような気分になり、思いのほか楽しかった。コロナ禍で出かける範囲が狭まったが、旅は遠くに行かなくとも案外できる。近場に行けば、ついでに脳内の記憶の海も旅することになる。

写真4

(次回は吉本由美さんが綴ります)

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プロフィール
田尻久子(たじり・ひさこ)

1969年、熊本市生まれ。「橙書店 オレンジ」店主。会社勤めを経て2001年、熊本市内に雑貨と喫茶の店「orange」を開業。08年、隣の空き店舗を借り増しして「橙書店」を開く。16年より、渡辺京二氏の呼びかけで創刊した文芸誌『アルテリ』(年2回刊)の発行・責任編集をつとめ、同誌をはじめ各紙誌に文章を寄せている。17年、第39回サントリー地域文化賞受賞。著書に『猫はしっぽでしゃべる』(ナナロク社)、『みぎわに立って』(里山社)、『橙書店にて』(20年、熊日出版文化賞/晶文社)がある。

吉本由美(よしもと・ゆみ)
1948年、熊本市生まれ。文筆家。インテリア・スタイリストとして「アンアン」「クロワッサン」「オリーブ」などで活躍後、執筆活動に専念。著書に『吉本由美〔一人暮らし術〕ネコはいいなア』(晶文社)、『じぶんのスタイル』『かっこよく年をとりたい』(共に筑摩書房)、『列車三昧 日本のはしっこへ行ってみた』(講談社+α文庫)、『みちくさの名前。~雑草図鑑』(NHK出版)、『東京するめクラブ 地球のはぐれ方』(村上春樹、都築響一両氏との共著/文春文庫)など多数。

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