
親友のために護るべきもの――中山七里「彷徨う者たち」
本格的な社会派ヒューマンミステリー『護られなかった者たちへ』『境界線』に続く、「宮城県警シリーズ」第3弾。震災復興に向けて公営住宅への移転が進む仮設住宅で発生した、殺人事件。大原知歌の自供により、主犯・大原知歌、従犯・森見貢の可能性が濃厚となる中、笘篠刑事はふたりを伴ってある場所に連れていく――。
※当記事は連載第20回(最終回)です。第1回から読む方はこちらです。
4
知歌と貢をパトカー二台に分乗させ、笘篠は自らハンドルを握る。蓮田は行き先も告げられず、ただ後部座席で知歌の隣に座っている。だが告げられずとも、通い慣れた道なので、笘篠の目指している場所は大方の見当がつく。見当がつくのは知歌も同様らしく、先刻から徐々に落ち着きをなくしている。
今更ながら蓮田は己の粗忽さに恥じ入る。知歌が出頭して供述を始めた時点で事件は終わるとばかり思い込んでいた。
早計だったのだ。
主犯が大原知歌、従犯が森見貢という決着には、まだ先があるらしい。知歌が落ち着きを失くしているのはおそらくそのせいだ。
やがて蓮田の視界に目的地が入ってきた。
事件の始点、吉野沢仮設住宅。
目的地については途中から見当がついていたが、予想外だったのは敷地内に数名の鑑識係がいたことだ。中には両角の顔も確認できる。
「笘篠さん、どうして両角さんたちが」
「森見貢の事情聴取が始まる直前、俺から鑑識を依頼しておいた。どうやら作業も終わりかけているみたいだな」
蓮田たちのパトカーが敷地内に進入して停まると、後続のパトカーもそれに倣った。降車した笘篠は両角の許に駆け寄る。
「出ましたか」
「出た。毛髪も採取したしルミノール反応も検出された。十中八九、あそこが犯行現場だろうな」
「恩に着ます」
「恩に着る前に教えろ。あの場所に目星を付けた根拠は何だ」
「ただの勘ですよ」
口ぶりからも噓であるのは明らかだった。
「行くぞ」
笘篠は裏手に回り、一軒の仮設住宅へと入っていく。蓮田と知歌、そして貢がその後に従う。
家の中では、捜査員二人に挟まれた人物が歩行帯の上で肩を落としていた。彼らの周りを鑑識係が動き回っている。
知歌が駆け寄ろうとするが、二人の捜査員に制止されて手を伸ばしても指が届かない。
「刑事さん、これはいったいどういうことですか」
「理由はあなたが一番よく知っているんじゃありませんか。そう、森見貢さんよりも」
蓮田は訳が分からないまま貢を見る。貢もまた戸惑いを隠せないでいる。
「掛川勇児さんを殺害したのは、この人です」
笘篠が告げると、蓮田は声を上げそうになった。すんでのところで抑えたものの衝撃がなかなか収まらない。
驚いたのは貢も同じらしく、知歌と皆本老人を代わる代わる眺めて啞然としている。
「記録されていた大原知歌さんの供述と先刻の森見貢さんの供述を対比してみたんです。すると殺害状況の説明で二人の供述は一致するものの、ある一点で微妙に相違します。それは凶器とされる角材の扱い方についてです。まず森見貢さんは『考えてもみろ。知歌の細腕で角材を振り回せると思うのか』と話しました。一方、大原知歌さんは『角材を掛川さんの頭目がけて振り下ろしていた』と話しています。森見貢さんは元々建設業に従事していたので普段から角材を扱い慣れています。だからこそ『廃材にしたって最短一メートル半か二メートルはある代物だ。厚さ38ミリの国産杉なら二キロから三キロもある』という実体験に基づいた証言も出てくるのです」
蓮田は舌を巻く。同じ供述は自分も聞いているが、ここまで細部にまで拘ってはいなかった。
「一方、大原知歌さんは角材を振り下ろすという表現をしています。彼女が非力な女性であることを考慮すると少し奇妙です。重さ二キロから三キロもある角材を振り下ろして、成人男性の頭部を殴るというんですから。では、どうしてこんな表現になったのか。それは、いささか不自然であったとしても凶器が角材であると森見貢さんに信じさせなければならなかったからではないでしょうか。犯行現場で大原さんと森見さんが出くわしたという状況を考慮すると、彼女は森見さんに対してあたかも自分が犯人であると思わせ、助力を乞うとものと思われます。言い換えれば、実際に使用されたのは角材ではない別のものだったのではないでしょうか。つまり、本来の凶器は角材に似た別のものだった」
笘篠は静かに知歌を睨む。知歌は怯えるように唇を震わせている。
「では、何故彼女は本来使われなかった角材を凶器だと告げたのか。それは実際の凶器が、そのまま犯人を指し示す道具であったからです。彼女は実際には犯人ではなく、犯人を庇おうとして森見貢さんに虚偽の話をしただけなのです」
「笘篠さん」
蓮田は口の中が渇いていて上手く喋れない。
「知歌はこの人を庇おうとしたんですね」
蓮田は捜査員二人に挟まれた格好の皆本老人に目を向ける。皆本老人は誰とも目を合わせようとしない。
「大原知歌さんが、自ら泥を被ってでも護らなければならない人物。それは身寄りがなく、誰の助けも得られない皆本伊三郎さんでした」
「実際に使用された凶器は何だったんですか」
「あれを貸してください」
笘篠の言葉に呼応して、鑑識係の一人がビニール袋を携えてくる。中に入っているのは、形状が斧に似た木槌だ。
はっとした。
蓮田が笘篠とともに石巻港に赴いた際、漁師らしき男が漁網の手入れに四角い木槌を使っていたが、あれと同一のものだったのだ。
「これはサービングボードというもので、漁網の手入れ以外にもブリキの工作やロープの加工時に叩いて柔らかくする道具です。頭部(叩く所)の材質には固い樫を採用し、割れ防止のために蠟が塗ってあります。長さ四十四センチ、頭部は十二センチ、重量約七百グラム。扱いやすく、そして殺傷能力も充分にあります」
サービングボードの頭部は直方体となっている。確かに殴打すれば、角材で殴ったものと同じ創口になると思える。おそらく笘篠は石巻港で漁網の手入れに使われていたサービングボードを見た時から、皆本老人に疑惑の目を向けていたのだろう。
「皆本のおじいちゃん、どうしてそんなものを取っておいたの。あれだけ捨てておくように言ったのに」
我慢できなくなったように知歌が責める。皆本老人は申し訳なさそうに、ますます身を縮込める。
「サービングボードの頭部には蠟が塗られているので、付着した血液さえ拭い取ればバレないと考えたのでしょうね」
「捨てるのが忍びなかったんだ」
初めて皆本老人が口を開いた。
「ヤバいのは分かっていた。でもよ、こいつは俺が漁網で生計を立てて家族を養っていた時の、たった一つ残った思い出の品なんだよ。とても捨てられねえよ」
「お察しします。しかしですね、どれだけ丁寧に血を拭き取っても痕跡は残り、ルミノール反応が検出されてしまうんです」
素面の皆本老人はこんなにも弱々しいのか。蓮田は胸が詰まる思いだった。
「あなたと掛川さんの間に何があったのか、お聞かせいただけますか」
「俺は酒ェ吞んでたんだ。そこに掛川さんがやってきて、いつものように公営住宅への移転を勧め始めた。それで俺が愚図っていると、とうとう民事調停した上で強制執行に移行するしか仕方がないと言い出した。俺も酔っていて自制できなくなっていたが、掛川さんの言い方にもえらく険があった。ついかっとなったら、いつの間にかテレビ台に置いてあったサービングボードを握ってた。気が付いたら、掛川さんが頭から血ィ流して倒れていた」
「それからどうしました」
「どうしていいか分からなくなって、大原さんに連絡を入れた。すぐに来てくれたよ」
「待てよ」
納得がいかず、蓮田は知歌に問い掛けた。
「さっきお前のスマホで交信記録を見た時、貢の前の記録がなかったぞ」
すると知歌はポケットから二台の筐体を取り出した。
「将ちゃんに見せたのはこっちのプライベート用。〈友&愛〉関係の受発信は支給されたスマホを使っているのよ」
「大原知歌さん。皆本さんから呼び出され、あなたは部屋の惨状を目にしたはずです。あなたの取った行動を教えてくれませんか」
慇懃なれど、笘篠の言葉は有無を言わさぬ口調だった。追い詰められた体の知歌は訥々と話し始めた。
「皆本のおじいちゃんからの電話は、とにかく来てくれという内容だったんです。来てみると掛川さんが頭を割られていて、もう息もしていなくて……わたし一人ではどうすることもできなくて、それで貢くんを呼んだんです」
「あなたは森見貢さんに、自分が犯人だと偽ったんですね」
「はい。わたしが犯人だと言えば必ず助けてくれると思ったからです。実際、貢くんは住人を公営住宅に移転するよう説得することを条件に、すぐ解決案を出してくれました」
「それが密室を作るアイデアだったんですね」
「この部屋で殺人が行われたことが知れれば、真っ先に疑われるのは家にいた人間ですから。密室を作ったのは犯行が不可能な状況を作り出す目的ともう一つ、本当の殺害現場がどこなのかを晦ませる目的なんだと貢くんから説明されました」
蓮田は己の洞察力のなさに笑い出したくなった。何が焼け木杭に火が付いただ。蓮田と貢がそう思い込んでいただけで、結局のところは知歌が貢の思いを利用していたに過ぎなかったのだ。
貢も同じ心中なのか、知歌を眺めながら口を半開きにしている。まだ惚れられていると思っていた相手に、実は逆に利用されていたのだ。男にとってこれほど滑稽なことはあるまい。
哀れな男二人を無視して笘篠の問いは続く。
「そうまでして皆本さんを護ろうとしたのは何故だったのですか」
「わたし以外に助ける人間がいなかったからです」
知歌は怒ったように言う。
「家族も家も工場も何もかも失って、たった一つの拠り所だった仮設住宅まで追い出されようとしている。この上刑務所に放り込まれたら、刑期を終える前に死んでしまうと思ったんです」
知歌に代弁されたかたちの皆本老人は沈黙している。不甲斐ない話であっても、満更絵空事ではないからだろう。
今ここに立っているのは五人。騙された男が二人、騙されなかった男が一人。護られた男が一人。だが中心にいたのは一人の女だった。
「ははは」
突然、貢が笑い出した。
「傑作だな。いや、俺のことなんだが。本当に傑作だよ」
不謹慎とも思えるが、尚も貢はくすくすと笑い続ける。再会してから蓮田が初めて見る、快活だがどこか空虚な笑い方だった。
つられて蓮田も笑いそうになる。悔恨と自己憐憫と、照れ隠しの混ざった笑い方になりそうだった。
エピローグ
皆本伊三郎が殺人容疑で逮捕されて二週間ほど経過した頃、蓮田は単身吉野沢に赴いた。命令された訳でもなく請われた訳でもなかったが、足を向けずにはいられなかったのだ。
仮設住宅は既にかたちを失くしていた。全ての住宅はきれいさっぱり解体され、基礎部分とわずかな廃材を残しているだけだ。裏手に控えていた大小の建機も今は一台もない。
皆本老人が逮捕された後、渕上・柳沼の二家庭は相次いで移転していった。役場に抵抗するのに疲れたせいもあるが、やはり近隣住民が役場の担当者を殺していたという事実に居心地が悪くなったのだろう。
跡地には女が一人で佇んでいた。
沙羅だった。
「よお」
蓮田が控え目に声を掛けると、沙羅はゆっくりとこちらに振り返った。
「そろそろ来る頃だと思ってた」
「県警に問い合わせでもしたのかよ」
「勘。わたし、そういうの得意だから」
では貢と知歌が共犯関係にあったことも勘づいていたのかと疑ったが、口にはしない。
「旦那を逮捕された恨み言を言うために待っていたのか」
「恨み言、ない訳じゃないわよ。保釈請求したけど却下されたし、もし裁判で禁錮刑以上の判決が下されたら二年半は立候補できない。お父さん、かんかんに怒って離縁させるとまで言い出したからね」
「あの親父さんなら言いそうだな。で、お前はどうするつもりだ」
「まさか。わたしは森見議員の後継者と結婚したんじゃなくて、幼馴染みの祝井貢と結婚したんだもの」
「貢が聞いたら泣くほど感動する」
「する訳ないじゃない、あの鉄面皮が。昨日も差し入れに行ったけど、ありがとうのひと言もなかった」
皆本老人が自供した直後、知歌も貢も容疑を認め、そのまま逮捕・起訴と相成った。今は三人とも仙台拘置支所で初公判を待つ身だ。
「後ね、将ちゃんの情けない顔が見たかったの。あなたが萎れていてくれたら、少しは鬱憤が晴れそうだから。何しろ旦那をパクった張本人なんだもの。そのくらいの罰ゲームはありでしょ」
「どうして俺が萎れなきゃならない」
「知歌はあのおじいちゃんを護ろうとした。旦那は知歌を護ろうとした。わたしは森見家を護ろうとした。皆が皆、震災で大事なものを失ったから、今あるものを手放すまいとして一生懸命だった。将ちゃんは何を護ろうとしたの」
蓮田は返事に窮する。
自分がしたことは警察官としての仕事のみだ。三人と旧交を温め、あわよくばあの頃に戻りたい願望がなかったと言えば噓になる。
しかし結局は二人に手錠を掛け、残った一人にも辛い思いをさせている。
「男の人って面白い。必ずと言っていいくらい未練のある場所に戻ってくるんだよね。だから将ちゃんもここに来ると予想していた」
沙羅の狙いは見事に的中していた。自分は果たせなかった願いと言葉にできなかった思いを鎮めるために、ここに来たのだ。
「容赦ないな」
「何も失くさなかった人が悲劇の主人公みたいな台詞を言わないでよ」
失くしたものがない訳じゃない。
自分は震災時にではなく、十四年前に失くしているのだ。
せめてひと言くらい愚痴を言わせてくれ。
「遂に貢とは仲直りできなかった。今度面会に行ったら、俺が残念がっていたと伝えてくれ」
すると沙羅は心底呆れたような声を上げた。
「将ちゃん、本気でそんなことを考えてたの」
「何がだよ」
「あのね、旦那が知歌を護ろうとしたのは焼け木杭に火が付いた訳でも、昔付き合っていた相手に変な義務感を抱いていた訳でもないの。将ちゃんが知歌を好きだったから。たった一人親友と呼べる人間が思いを寄せた相手だから護ろうとしたのよ。決まってるじゃない」
「……まさか」
「何年、わたしが旦那と暮らしていると思うの。それに比べて、将ちゃんは相変わらず鈍いんだから」
沙羅は清々したという顔で踵を返した。
「言いたいことがあるなら直接本人に言って」
沙羅が立ち去った後も、しばらく蓮田は立ち尽くしていた。
失くしていたというのは自分の勘違いだったのかもしれない。
思いもかけなかった喜びと、根強い疎外感が同時に湧き起こる。
やがて蓮田も仮設住宅跡に背を向けた。
町も、人と人の間も、完全な復興にはまだ時間がかかりそうだと思った。
(了)
*『彷徨う者たち』を最後までお読みいただきありがとうございました。当連載は2024年1月に書籍化予定です。書籍版もぜひご期待ください。
プロフィール
中山七里(なかやま・しちり)
1961年生まれ、岐阜県出身。『さよならドビュッシー』にて第8回「このミステリーがすごい!」大賞で大賞を受賞し、2010年に作家デビュー。著書に、『境界線』『護られなかった者たちへ』『総理にされた男』『連続殺人鬼カエル男』『贖罪の奏鳴曲』『騒がしい楽園』『帝都地下迷宮』『夜がどれほど暗くても』『合唱 岬洋介の帰還』『カインの傲慢』『ヒポクラテスの試練』『毒島刑事最後の事件』『テロリストの家』『隣はシリアルキラー』『銀鈴探偵社 静おばあちゃんと要介護探偵2』『復讐の協奏曲』ほか多数。
関連書籍