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わたしの後半生を変えた天安門事件――「マイナーノートで」#16〔6.4の記憶〕上野千鶴子

各方面で活躍する社会学者の上野千鶴子さんが、「考えたこと」だけでなく、「感じたこと」も綴る連載随筆。精緻な言葉選びと襞のある心象が織りなす文章は、あなたの内面を静かに波立たせます。
※#01から読む方はこちらです。


6.4の記憶

 1989年6月4日。中国、天安門事件の日。英語圏ではTiananmen Square massacreと呼ばれている。この日、自由と民主主義を求めて北京の天安門広場に集まった若者たちを、人民解放軍が虐殺した。死者や負傷者の数はつかめず、行方不明者もいて、事件の全貌はいまだわかっていない。この事件をきっかけに海外へ出たまま戻らない人たちもいる。あれから30余年。20代だった彼らも、いまでは50代になっているはずだ。
 この日は、わたしの後半生を変えた。

 その数年前に、中国研究者のかけひ久美子さんの案内で日本の女性研究者たちが団体で中国訪問ツアーをする機会に恵まれた。中国政府が改革開放の旗を掲げ、政経分離の原則のもとに、急速に市場化を進めていたときのことだ。個体経営者と呼ばれる新しい起業家たちが次々に登場し、中国経済は活気づいていた。個体経営者たちから成る日本訪問団と交流する機会があったが、その折、個人的な興味からこう尋ねてみたときの答えに驚愕した。

「個体経営者になるにはどんな条件が必要ですか?」というわたしの素朴な質問に、エネルギッシュな風貌のその若い男性は、ためらわずこう答えたのだ。
「そうですね、お金が好きなことです」

 このむき出しの上昇志向と物質的欲望を目の当たりにして、くらくらした。高度成長期の日本にはあったかもしれないが、いまでは、そういうむき出しの欲望をオモテに出すのははばかられる雰囲気になった。こういう人々が満ちあふれている中国は、きっと急速に変化するにちがいないと感じた。そして当時の中国はそういうエネルギーにあふれた人々にチャンスを提供していた。

 中国を旅して、その活力と変化のスピードに圧倒された。この地はただの旅行者として訪れる場所ではない、できれば1年間くらいじっくり腰を落ち着けてその変貌ぶりを体験してみたいものだ、と思った。大学教員には何年かに1度、在外研修の機会がやってくる。数年以内にその順番がまわってきそうだった。研修先は事前に仕込みをして、受け容れ機関や受け容れ研究者を決めておく必要がある。上海の復旦ふくたん大学の研究者とコンタクトができたので、客員研究員として受け容れてもらえないかと打診し、その可能性を探っているところだった。

 中国語を学ぼうと思った。同じ漢字文化圏、発音は難しいが筆談でかんたんな用は足りた。簡体字の読めないところは伏せ字だと思って飛ばして読んでも、なんとなく意味は通じた。そうやって現地の新聞を読んで、周囲に解説までしてみせた。たったひとつ、中国の人々の主な移動手段が自転車であることだけが、幼少期から自転車に乗りそびれて今も乗れないわたしのアキレス腱だったが、行けばなんとかなるだろう、と楽観した。わたしはまだ30代だった。
 そこに起きたのが天安門事件だった。

 自国の軍隊が自国民に銃を向ける。そうだったのか、軍隊は国を守る以上に権力を守るのか。しかも革命の栄光を背負った人民解放軍の兵士たちだ。天安門に派遣されたのは、辺境の少数民族からなる部隊だと聞いた。北京のエリート大学生たちに反感や憎悪を抱いているだろう彼らは、ためらわず学生に発砲すると期待されたのだろうか。日本でも60年代の学生運動のときに、大学生たちのデモ隊の両脇をがっちり固めたのは、同じ年頃の、それより学歴の低い機動隊の若者たちだった。大学進学率が同年齢人口のおよそ15%、大学生がまだ特権階級だったころだ。デモ隊の学生たちより、機動隊の彼らの方がずっと体格がよく、幼く見えた。

 天安門広場で座り込みをする若者たちにつっこんでれきしゃを出した戦車や、逃げ惑う若者たちに発砲した軍隊によって、死傷者がどれだけ出たかは、今日に至るまでわかっていない。それどころか天安門事件は完全にタブーとなって、歴史の闇のなかに葬られた。記録も残らず、6.4と口にすることすら難しくなった。

 これが中国か、これが中国の権力者か。わたしは深いショックを受けて、それを指導した当時の中国のリーダー、鄧小平が生きている限りは、中国の土地を踏むまい、と決意したのだ。わたしの中国行きのプランは、すべて白紙に戻った。

 その時のことだ、思いがけずドイツのボン大学から1年間客員教授として教えに来ないか、とオファーがあったのは。わたしはその申出にとびついた。こうしてわたしの向かう方向は180度西から東へと変化したのだ。結局同じ世界大戦の敗戦国であるドイツで1年間を過ごしたことは、戦争責任と戦後処理の彼我ひがの違いをくっきりと知らしめ、その後のわたしの研究関心を左右するに至った。折しもドイツは「ベルリンの壁」が壊れて1年半後、しかもわたしの滞在中に韓国の元「慰安婦」、金学順さんが日本政府を告発したというニュースが伝わってきた。この情報はボディブロウのように肺腑にこたえた。帰国してから書いたのが『ナショナリズムとジェンダー』(青土社、1998年/岩波現代文庫、2012年)である。わたしは国家と戦争、性暴力について、考えつめるようになった。

 だが……と思う。もしあの時、中国へ行っていれば。わたしの後半生の研究課題はかなり違ったものになっただろう。わたしは中国語を学び、中国人の知己を得、中国と行き来し、中国研究者のはしくれになっていたかもしれない。その後、中国の女性学研究者、李小江さんの知遇を得て、中国東北地方のオーラルヒストリー・プロジェクトについて知り、日本支配下の満州での中国人の経験や、さらに敗戦後の満州引揚者の体験等に深入りするようになるなど、中国への関心を失ったことはなかった。

 中国では権力者が変わると歴史認識が大きく変わる。1966年から1976年まで続いて中国全土を席捲した文化大革命は、1981年の共産党大会の「歴史決議」で完全に否定された。かつてのヒーローは反逆者になり、迫害された人々の名誉回復が行われた。政権が歴史を書き換える。

 数年前に北京を訪れたときのこと。宴席でわたしの隣に座った男性の知識人が、何のはずみだったか、こっそりわたしに呟いた。彼は大学で教えていた。
「私はあの時、天安門広場にいたんですよ」
 わたしが学生運動の世代だと知って、理解があると思ったのだろうか。
 わたしも小さな声で彼に尋ねた。
「そのことを学生に話したことはありますか?」
「いいえ、ありません」

 こうやって記憶は封印され、歴史は忘れ去られる。
 体験者は老い、口をつぐんだまま死を迎えるかもしれない。あるいはいつの日か、記憶を語り出す日が来るかもしれない。

 天安門事件を経験したべつの中国人男性と話したときのことだ。
「あなたが生きているあいだに、中国政府は変わると思いますか?」というわたしの問いに対して、彼はこう答えた。
「無理でしょう」
 彼は亡命者のかおをしていた。

(タイトルビジュアル撮影・筆者)

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プロフィール
上野千鶴子(うえの・ちづこ)

1948年、富山県生まれ。社会学者。認定NPO法人ウィメンズアクションネットワーク(WAN)理事長、東京大学名誉教授。女性学、ジェンダー研究のパイオニアであり、現在は高齢者の介護とケアの問題についても研究している。主な著書に『家父長制と資本制』(岩波現代文庫)、『スカートの下の劇場』(河出文庫)、『おひとりさまの老後』(文春文庫)、『ひとりの午後に』(NHK出版/文春文庫)、『女の子はどう生きるか 教えて、上野先生!』(岩波ジュニア新書)、『在宅ひとり死のススメ』(文春新書)などがある。

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