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エッセイ「空想居酒屋」第10回 〔健康度外視珍味偏愛〕 島田雅彦

 体に悪いものは美味で、健康にいいものは味気ない。
 などと嘯いているあいだに、健康診断の結果がイエロー・シグナルだらけになってしまったのはもちろん、自業自得と心得ている。だから、相変わらず、塩分を控えようとか、糖質オフにチャレンジしようとか、酒量を減らそうとか、プリン体に気をつけようとか、脂肪少なめのものにしようとはしていない。まだタバコ吸ってるんですか、ともいわれる。世の健康志向に水を差す気はないが、健康に神経質になるあまり、ストレスを抱え込んだら、その分、早死にするだろう。そんな開き直りから、私は一切の食事制限をしていない。健康診断書は他人に見せびらかすものではないが、私は脂肪肝で、γGTPや中性脂肪、コレステロールの値も要注意レベルだし、血圧も高めで、近頃は尿酸値が上がり、痛風前夜の状態だ。
 医者に勧められ、食習慣を改めるブリーフィングを受けさせられたが、栄養士のいうことは全て了解しており、何ら新鮮味もないので、退屈しのぎにある夜の食事のメニューを詳細にわたって話したところ、栄養士が呆れていた。食習慣を改める気がないなら、せめて適度な運動をしてくださいといわれ、週に一回、近所のスポーツセンターに通い、地元の老人たちに混じって、マシーントレーニングと水泳をするようになったら、腹もへこみ、筋肉もついてきたので、食欲が増進し、酒にも強くなってしまった。
 やや荒廃した街にも似たこの肉体、スラム・ボディを作り上げたのは居酒屋であることはいうまでもない。スラム・ボディは一朝一夕にしてならず。長年に渡る胃袋へのアメとムチの結果だ。空想居酒屋では、そうしたボディビルダーにとってのプロテインのような、アイテムを常時揃えておかなければならない。
 まずは塩分過多のつまみ。居酒屋のメニューは塩辛い物には事欠かない。塩辛、酒盗、明太子、沢庵、キムチ、干物などなど。中でもとりわけ塩分が高いのは、村上の塩引き鮭、石川県のへしこ鰊だろうか? 減塩の圧力に屈するどころか、我が道を往くこの潔さに私も与したい。朝食やおにぎり、お茶漬の定番でもある塩鮭も辛塩でなければ、本来の味わいが得られない。少量の鮭でご飯がいっぱい食べられる、それが米が主食だった時代の常識だった。塩引き鮭もその伝統を継承している。余計な水分は抜け、鮭の身は引き締まっており、その分、旨味が強い。ニューヨークのブルックリン、ブライトンビーチというロシア人街でこの塩引き鮭そっくりの鮭の半身を見つけ、たったの八ドルで買って帰ったが、しばらくはそれに夢中だった。ロシアでは辛塩の塩鮭をスモークサーモンのように生で食べる。荒巻鮭をそのまま食べる感覚だが、悪くない。

偉観を誇る村上の塩引き鮭

偉観を誇る、新潟・村上の塩引き鮭

 干物といえば、くさやがメニューにある店は都内でも八丈島料理の店や門前仲町の「魚三」など限られているが、あれば必ず注文してしまう。他の客の顰蹙を軽く買いながらも、やめられない。八丈島に行った折には工場で箱買いし、冷凍保存し、三日置きにカセットコンロを外に出して焼いていた。
 やや変わったところでは酒盗焼という調理法がある。酒盗と酒、醤油などを混ぜ合わせたタレをサワラやカマス、タチウオなどに塗って焼いたものだが、これはくさやの美味さを厨房で再現しようとした板前の裏技だったかもしれない。酒盗は豆腐ともよく合うし、オリーブ油と混ぜて、フレンチフライにまぶしてもいい。ヴェネツィアにいた頃は酒盗の代わりに、アンチョビを多用していた。一キロ十ユーロくらいで、食べ切れるか心配だったが、何も冷蔵庫にない時は、小ぶりのノンパンにバターを塗り、アンチョビを挟んだサンドイッチを作ったり、塩辛のように白いご飯に乗せて食べているうちにすぐになくなった。
 魚卵は痛風、中性脂肪の目の敵にされるが、中毒性があり、簡単にはやめられない。魚からしてみれば、子孫の塊を食われてしまうのだから、魚卵好きの人間は天敵ということになり、私たちは魚の恨みを買い、その報いとして痛風になったりするのであろう。白子好きも同様の報いを受けることになるだろう。魚卵の中でも最も食卓に普及しているのはタラコであることは間違いない。明太子はおにぎりの定番でもあり、創作料理に調味料として用いられたりもするし、和製スパゲッティのセンターに位置してもいる。生のたらこは生姜や白滝と煮たりすると、パスタ擬きになる。正月に消費が集中するカズノコもプリプリの歯応えが心地よく、そのまま寿司ネタとして、また子持ち昆布の状態で、さらには松前漬やわさび漬のゲストのような形でしばしば口に入る。イクラ、キャビアに至っては至福の時をもたらしてくれる。スーパーで安売りされている子持ちししゃもも半分は魚卵を食べているようなものだし、ハタハタも小ぶりな魚体には不釣り合いに大きい魚卵を抱えており、弾けるキャンディ「ドンパッチ」を思い出させる食感もまた偏愛の対象になる。タイやヒラメ、カンパチ、ブリなどどんな魚も卵を抱えており、それらを時に焼いたり、蒸したり、煮付けに入れたりして食べてきたが、自分の手で釣ったサバの卵巣をポン酢で食べた時は思わず唸った。
 もちろん、カラスミを忘れてはいけない。近頃は自家製のものも出回っているが、イタリアのサルデーニャや台湾、さらにはモーリタニア産のカラスミもあり、それぞれ微妙に熟成度合いや硬さが違っているが、これほど酒のお供にふさわしいものもない。サルデーニャではこの切り身をフィノッキオ、すなわち茴香(ウイキョウ)の鱗茎(りんけい)と一緒にオリーブ油をかけて食べる。玉ねぎの食感と甘い香りが絶妙にカラスミにマッチするが、台湾では大根とニンニクの葉とのコンビネーションがベスト。さて魚卵の極め付きはフグの卵巣の糠漬だ。この石川名物は長期間、漬け込むことで毒消しをしているため、極めて塩辛い。それこそ耳かき一すくいでご飯が一膳食べられるほどだ。

フグ子の糠漬の塩辛さはハンパじゃない

フグ子の糠漬の塩辛さはハンパじゃない

 塩分過多、プリン体豊富なメニューを並べた空想居酒屋では、さぞかし酒が進むだろう。喉の渇きを癒したい客は日本酒やワインの合間に水をがぶ飲みするに違いない。温泉水や炭酸水は原価で提供する代わりに、セルフサービスで勝手にクーラーボックスから持っていってもらう。また「この店で飲む酒が旨すぎて、肝臓を壊した」などとクレームをつけてくる客への慰めとして、牡蠣殻エキスか、ウコンの錠剤もしくはドリンクを用意しておき、希望者にはお通しの代わりに出し、三百円徴収するというやり方もある。
 珍味の品揃えを誇る空想居酒屋では、塩ウニも置きたいが、これは極めて高価ゆえ、小皿に小さじ一杯出してもあまりサマにならない。同じ高級珍味なら、鮒寿司をメニューに加えた方がいい。こちらも琵琶湖産の子持ちニゴロブナだと、一尾一万円は下らない。だが、頭と尻尾の切れ端ならば、安く手に入る。実際、お取り寄せしたことがあるが、真空パック入りの切れ端は七百円くらいだった。ちゃんと発酵したご飯もついていた。この白い粘土のような酸っぱいご飯はそれ自体が乳酸菌の塊で、米のチーズというべきものだ。そのまま食べても美味しいが、調味料のように挽き肉料理に混ぜてもいい。実際、メンチカツの挽肉に混ぜたり、餃子のネタに混ぜてみたが、深い味わいが出た。頭と尻尾は細かく刻み、発酵飯、みじん切りのネギと和え、醤油を少し垂らした共和えは、日本酒にも焼酎にもよく合う。
 沖縄の豆腐餻は麹の香りが心地いい珍味であるが、やや甘さが勝るので、私は中国の腐乳の方が好きだ。これも塩辛く、大きめのサイコロ一つでご飯を一膳食べられるが、ちびちび楊枝の先で削りながら、酒を飲むと、酒が甘く感じる。腐乳にもプレーン、辛いタイプ、クセの強い毛カビタイプと種類が豊富で、クリームチーズのようにパンに塗って食べても違和感はない。豆腐餻や腐乳に似たものとして、私が認識しているのが、わさび漬である。わさびの葉を粕漬にしたものなのだが、この粕を板わさに塗って食べるのが何より好きだ。
 ある時、奈良には旨いものがないと呟いた私に、奈良にゆかりのある人が桐箱入りの高級奈良漬を一度食べてみろとわざわざ送ってくれた。奈良漬なんてうな重の残りのご飯を食べるときくらいしかありがたいと思ったことはない。だが、その桐箱入りの奈良漬は自分が知る庶民的奈良漬とは根本的に別物、ほとんど奈良漬の貴族と呼ぶべき代物だった。粕に埋もれたシロウリやキュウリ、生姜も絶品なのだが、それらを発掘した後にこその真の楽しみはあった。粕と味噌が絶妙にブレンドされたその漬け床自体が、まさしく豆腐餻そのものの味だったのである。小皿にその味噌を軽く盛り、和菓子用の楊枝で少しずつ口に含み、酒を飲むと、自然、顔がほころんでくるのだ。
 鮒寿司にしても、腐乳や奈良漬の味噌にしても、アミノ酸の素であるから、旨いに決まっているのだが、乳酸菌の宝庫でもあり、顕著な整腸作用もあるのだ。飲み過ぎで慢性的に下痢気味のドリンカーにはありがたい恩恵をもたらしてくれる。

やはり腐乳かけごはんも捨てがたい

腐乳かけごはんも、やっぱり捨てがたい

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プロフィール

島田雅彦(しまだ・まさひこ)
1961年、東京都生まれ。作家・法政大学教授。東京外国語大学ロシア語学科卒業。在学中の83年に『優しいサヨクのための嬉遊曲』で注目される。『夢遊王国のための音楽』で野間文芸新人賞、『彼岸先生』で泉鏡花文学賞、『退廃姉妹』で伊藤整文学賞、『カオスの娘』で芸術選奨文部科学大臣賞、『虚人の星』で毎日出版文化賞を受賞。ほかの著書に『天国が降ってくる』『僕は模造人間』『彗星の住人』『悪貨』『ニッチを探して』『オペラ・シンドローム』など多数。2010年下半期より芥川賞選考委員を務める。

関連書籍


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多彩な執筆陣による連載小説・エッセイ、教養・ノンフィクション読み物や、朝ドラ・大河ドラマの出演者や著者インタビューなどをお届けします。新刊情報も随時更新。ときどき編集部裏話も!  *NHK出版HP → https://www.nhk-book.co.jp/
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