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小説・エッセイ

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人気・実力を兼ね備えた執筆陣によるバラエティー豊かな作品や、著者インタビュー、近刊情報などを掲載。
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#上野千鶴子

傷つけたが、傷つけられもした――「マイナーノートで」#32〔とりかえしのつかないものたち〕上野千鶴子

各方面で活躍する社会学者の上野千鶴子さんが、「考えたこと」だけでなく、「感じたこと」も綴る連載随筆。精緻な言葉選びと襞のある心象が織りなす文章は、あなたの内面を静かに波立たせます。 ※#01から読む方はこちらです。 とりかえしのつかないものたち 若手の写真家(もう若くないかもしれないが)、藤岡亜弥さんから、東京で写真展をするからギャラリートークに出てほしいと頼まれたとき、彼女の作品を見ながらとっさに思いついたタイトルが「とりかえしのつかないものたち」だった。そのタイトルを提

たったひとりでも、届けたい相手に届けば……――「マイナーノートで」#31〔なぜ書くか?〕上野千鶴子

なぜ書くか? 自分がものを書いて生きるようになるとは思わなかった。  小さい頃から読むのも書くのも好きだった。だが書くことで生きる道は、ハードルが高そうだった。お金に換えなくてもすむのなら、書くことと読むことで人生を過ごせたらこんなによいことはない、と思えた。老後は何をして過ごす? という問いに、わたしと同世代の沢木耕太郎さんが、「書くことと読むことがあればじゅうぶん」と答えていたのを見て、わが意を得た思いだった。だから失明するのがこわい。読めなくなるからだ。最近ではパソコ

人間を拒絶する厳しくて魅力的な場所――「マイナーノートで」#30〔森林限界〕上野千鶴子

各方面で活躍する社会学者の上野千鶴子さんが、「考えたこと」だけでなく、「感じたこと」も綴る連載随筆。精緻な言葉選びと襞のある心象が織りなす文章は、あなたの内面を静かに波立たせます。 ※#01から読む方はこちらです。 森林限界 森林限界。日本の本州中部では標高2500メートル以上にならないと達しない。  日本アルプスには北アルプスにも南アルプスにも3000メートル級の山々が連なる。暑く苦しい樹林帯を脱けると、いっきに眺望が開ける。そこは這松と草しか生えない森林限界だ。動物は

演劇は言葉と身体と光と美術と音楽と踊りが織りなす総合芸術である――「マイナーノートで」#29〔芝居極道〕上野千鶴子

各方面で活躍する社会学者の上野千鶴子さんが、「考えたこと」だけでなく、「感じたこと」も綴る連載随筆。精緻な言葉選びと襞のある心象が織りなす文章は、あなたの内面を静かに波立たせます。 ※#01から読む方はこちらです。 芝居極道 自分以外の何ものにもなりたくないと思っていた若い頃、板の上で他人の人生を生きようとする演劇青年たちが理解できなかった。他人の書いた脚本通りに声を出し、アドリブは許されず、自分の肉体を人前に晒す。恥ずかしげもなく、よくあんなことができるものだと思った。

手は、そのひとの人生を物語る――「マイナーノートで」#28〔ハンド・モデル〕上野千鶴子

各方面で活躍する社会学者の上野千鶴子さんが、「考えたこと」だけでなく、「感じたこと」も綴る連載随筆。精緻な言葉選びと襞のある心象が織りなす文章は、あなたの内面を静かに波立たせます。 ※#01から読む方はこちらです。 ハンド・モデル 電車に隣り合わせた若い女性がスマホをいじっている。その手を見て目が釘付けになった。なめらかな大理石のような肌、シミ一つない白さ、すっと伸びた細い指に手入れされた卵形のネイル。水仕事や土いじりなど、したこともないような繊細さ。日本語に「箸より重いも

日本人のお尻は甘やかされている――「マイナーノートで」#27〔トイレ事情〕上野千鶴子

各方面で活躍する社会学者の上野千鶴子さんが、「考えたこと」だけでなく、「感じたこと」も綴る連載随筆。精緻な言葉選びと襞のある心象が織りなす文章は、あなたの内面を静かに波立たせます。 ※#01から読む方はこちらです。 トイレ事情 コロナ禍での封印を解いて、4年ぶりに海外へ出た。出るたびにぎょっとするのはホテルに入って、最初にトイレを使うときだ。まず便座の高さが違う。腰を下ろしかけて、どこに着地すればよいかわからないまま、お尻が宙に浮く。お尻がついたらついたで、今度は足が浮く。

ギリシャへの旅で痛感した人間の愚かさ――「マイナーノートで」#26〔ヘロドトス漬け〕上野千鶴子

各方面で活躍する社会学者の上野千鶴子さんが、「考えたこと」だけでなく、「感じたこと」も綴る連載随筆。精緻な言葉選びと襞のある心象が織りなす文章は、あなたの内面を静かに波立たせます。 ※#01から読む方はこちらです。 ヘロドトス漬け ギリシャ旅行に行くのに、どの本を持っていけば良いか、考えた。そこにあまりにタイミングよく、尊敬する西欧古典古代研究者の桜井万里子さんから、新刊『歴史学の始まり ヘロドトスとトゥキュディデス』(講談社学術文庫、2023年)が届いた。天の配剤とはこの

潔癖だった父の「流儀」がコロナ禍で「ふつう」に――「マイナーノートで」#25〔衛生観念〕上野千鶴子

各方面で活躍する社会学者の上野千鶴子さんが、「考えたこと」だけでなく、「感じたこと」も綴る連載随筆。精緻な言葉選びと襞のある心象が織りなす文章は、あなたの内面を静かに波立たせます。 ※#01から読む方はこちらです。 衛生観念 口のなかに違和感をおぼえた。舌で探ると、口内炎だった。3年ぶりだ。しばらく会わないが、そして会いたいわけではないが、なつかしい友に会うような気がした。  これまでも、疲れがたまるとそのたびに口内炎に見舞われた。それが体調の危険信号、しごとを減らしなさ

大衆社会から、新・階級社会へ――「マイナーノートで」#24〔百貨店の終焉〕上野千鶴子

各方面で活躍する社会学者の上野千鶴子さんが、「考えたこと」だけでなく、「感じたこと」も綴る連載随筆。精緻な言葉選びと襞のある心象が織りなす文章は、あなたの内面を静かに波立たせます。 ※#01から読む方はこちらです。 百貨店の終焉 今年の1月31日にふたつの百貨店が閉店した。ひとつは東京渋谷のシンボルだった東急百貨店渋谷・本店、もうひとつは北海道は帯広にある道内資本最後の百貨店、藤丸が創業122年の歴史を閉じた。百貨店の研究をしてきたわたしには感慨がある。  百貨店の凋落は

胡蝶蘭をともに育ててくれた「おひとりさまプラン」――「マイナーノートで」#23〔フラワーボーイ〕上野千鶴子

各方面で活躍する社会学者の上野千鶴子さんが、「考えたこと」だけでなく、「感じたこと」も綴る連載随筆。精緻な言葉選びと襞のある心象が織りなす文章は、あなたの内面を静かに波立たせます。 ※#01から読む方はこちらです。 フラワーボーイ 今朝、窓辺の胡蝶蘭が1つ、開花した。  いつのまに蕾をつけ、いつのまにふくらんでいたのだろう? 咲いたときには、いつもびっくりする。おや、おまえ、ここにいたのかい? すっかり忘れていてごめんね、と。  わが家の胡蝶蘭はちょうど12歳だ。年齢を忘

神も仏も信じないわたしの宗教遍歴――「マイナーノートで」#22〔棄教徒〕上野千鶴子

各方面で活躍する社会学者の上野千鶴子さんが、「考えたこと」だけでなく、「感じたこと」も綴る連載随筆。精緻な言葉選びと襞のある心象が織りなす文章は、あなたの内面を静かに波立たせます。 ※#01から読む方はこちらです。 棄教徒 クリスマスの日に、アメリカの友人からアニメーションのe-cardが送られてきた。本人が若かったらきっとこうだろうな、と面影をしのばせる美少女が「聖夜」を歌うクリスマス・キャロルの動画だった。記憶がいっきょに子ども時代に引き戻された。  北陸の地方都市に

犬はいつでも「わたしの犬」だった。――「マイナーノートで」#21〔犬派〕上野千鶴子

各方面で活躍する社会学者の上野千鶴子さんが、「考えたこと」だけでなく、「感じたこと」も綴る連載随筆。精緻な言葉選びと襞のある心象が織りなす文章は、あなたの内面を静かに波立たせます。 ※#01から読む方はこちらです。 犬派 犬派か猫派か、と言われたら犬派の方だ。  世に猫派は多く、猫グッズがあふれている。猫のイラストや猫グッズはかわいさの余りつい買ってしまうから、わが家には猫グッズがあちこちにあるが、ほんとうは猫より犬が好き。あのつぶらな瞳でひたむきに見あげられたらたまらない

「いずれわたしも」と思いながら、想定外だった――「マイナーノートで」#20〔転倒事故〕上野千鶴子

各方面で活躍する社会学者の上野千鶴子さんが、「考えたこと」だけでなく、「感じたこと」も綴る連載随筆。精緻な言葉選びと襞のある心象が織りなす文章は、あなたの内面を静かに波立たせます。 ※#01から読む方はこちらです。 転倒事故 追い抜かれていく、次から次へと。早足で歩く長身の若者はもとより、重い荷物を抱えた女性、子連れの若い母親にも。こんなはずではなかった。人並み以上に足の速いことを自負していたわたしは、連れの友人たちから、しょっちゅうこう言われていたのだ、「ちょっと待って、

医療者たちの闘病、余命宣告、そして理想の最期――「マイナーノートで」#19〔医療者と死〕上野千鶴子

各方面で活躍する社会学者の上野千鶴子さんが、「考えたこと」だけでなく、「感じたこと」も綴る連載随筆。精緻な言葉選びと襞のある心象が織りなす文章は、あなたの内面を静かに波立たせます。 ※#01から読む方はこちらです。 医療者と死 このところ医療関係者の訃報を次々に聞く。医者は自分の得意とする分野の病で死ぬというジンクスがあるが、そうかもしれない。  在宅医療のパイオニアのひとり、元佐久総合病院医師、長純一さんが6月28日、すい臓ガンで亡くなった。東日本大震災で被災した宮城県