連載

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日比谷の書店員のリアルな日常、街の情景、本の話――〔肉じゃがと文化〕 新井見枝香

※当記事は1話読み切りのエッセイ連載「日比谷で本を売っている。」の第23回です。第1回から読む方はこちらです。  肉じゃがの肉は「豚」である。それはすき焼きの肉が「牛」で、ジンギスカンの肉が「羊」であることと同じくらい、当たり前のことだ。近所のスーパーでは豚肉売場がいちばん大きい。それは、豚の生姜焼き、肉野菜炒め、豚汁と、食卓に登場する頻度が高いからに違いない。しかし先日、肉じゃがを作って皆に振る舞う機会があり、私の常識が崩壊した。食卓を囲んだ中に島根出身と京都出身の人がい

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日比谷の書店員のリアルな日常、街の情景、本の話――〔マダムと黒猫〕 新井見枝香

※当記事はエッセイ連載「日比谷で本を売っている。」の第22回です。第1回から読む方はこちらです。  旅先の温泉街で喫茶店に入った。急勾配な坂の途中にあり、ともすれば看板に気付かず通り過ぎてしまう、ひっそりとした佇まいだ。趣味の合う知人の勧めがなければ、薄暗い地下へ降りるのを躊躇ったかもしれない。背筋の伸びたマダムにコーヒーを注文し、サンドイッチを待つ。ひとり客の私は、マダムとのちょっとした世間話が嬉しく、聞かれたことに答えたり、常連客を交えた話題に口を挟んだりした。本当は、

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日比谷の書店員のリアルな日常、街の情景、本の話――〔千穐楽と送別会〕 新井見枝香

※当記事はエッセイ連載「日比谷で本を売っている。」の第21回です。第1回から読む方はこちらです。  久しぶりに神保町へやって来た。有楽町で書店員になって、いつかは働いてみたいと憧れた本の街である。今の書店に転職を決める時、私は三省堂書店の神保町本店で働いていたのだ。辞表を出す前に、何度も自分に確認したことがある。 「それって今の職場から逃げ出す口実ではないよね?」  長年、同じ会社に勤めていると、何人もの退職を見届ける。理由は様々だったが、本当のところは本人にしかわからない

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日比谷の書店員のリアルな日常、街の情景、本の話――〔米とひとりぐらし〕 新井見枝香

※当記事はエッセイ連載「日比谷で本を売っている。」の第20回です。第1回から読む方はこちらです。  ついに特大の米袋が空っぽになった。実に玄関のたたきの9割を占拠していたそれは、知人が知り合いの農家に頼んで直送してくれたもので、推定30キロの米が詰まっていた。いくら私が食いしんぼうとはいえ、ひとり暮らしの女性である。我が家はアパートの3階にあり、エレベーターがない。額に血管を浮かべた運送会社の人が荷物を下ろす瞬間、潰したAmazonの段ボールを差し込んだのは、我ながらグッジ

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日比谷の書店員のリアルな日常、街の情景、本の話――〔蛙と進化〕 新井見枝香

※当記事はエッセイ連載「日比谷で本を売っている。」の第19回です。第1回から読む方はこちらです。  手帳に旅行の予定を書き込んだが、なんだか妙である。 「取鳥旅行」  それくらい、馴染みのない土地だった。  新幹線を姫路で降りて、特急で鳥取県内の某駅に着くと、知人が車で迎えに来ていた。梅雨時で空が重く、今にも降り出しそうだ。駅前を離れ川沿いを進むと、雲を被った山の合間に田んぼが広がり、ぽつぽつと数軒の家が並ぶ。知人の家の前で車を降りると、足下で何かが跳ねた。「モグラ叩き」が

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日比谷の書店員のリアルな日常、街の情景、本の話――〔推しと深掘り〕 新井見枝香

※当記事はエッセイ連載「日比谷で本を売っている。」の第18回です。第1回から読む方はこちらです。  職場のバックヤードには、徒歩圏内にある大型劇場「シアタークリエ」「帝国劇場」「東京宝塚劇場」の公演スケジュールが貼り出されている。それは我々売場スタッフにとって、天気予報より重要な情報なのだ。公演の前後は、まるでコンサート会場の物販ブースみたいに、レジが混雑する。現在公演中の舞台の、プログラムやグッズを販売しているからだ。私も好きなロックバンドのLIVEに行くと、ついオリジナ

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日比谷の書店員のリアルな日常、街の情景、本の話――〔とんびとカラス〕 新井見枝香

※当記事はエッセイ連載「日比谷で本を売っている。」の第17回です。第1回から読む方はこちらです。  ゴールデンウィークは仕事で福井県の温泉地に滞在していた。そこかしこに広がる田んぼは、苗を植えたばかりの状態である。その辺りから愉快な蛙の鳴き声が聞こえるものの、透き通った水を覗き込んでも、姿は見えない。そうかと思えば、ぎょっとするほど近くに、白鷺が黙って佇んでいる。都内でこんなに巨大な鳥がふらふらしていたら、たちまち人だかりができるか、捕獲されるだろう。道端に生える雑草の合間

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日比谷の書店員のリアルな日常、街の情景、本の話――「日比谷で本を売っている。〔ビールと生きがい〕」新井見枝香

※当記事はエッセイ連載の第16回です。第1回から読む方はこちらです。  職場の仲間と、仕事終わりにクラフトビールを飲みに行こうと約束してから、数か月が経った。飲食店の時短営業が解除されないと、我々はラストオーダーに間に合わない。ぎりぎり閉店前に駆け込んだとて、アルコールの提供が終わってからでは、揚げたての唐揚げもむなしいだけである。  久しぶりに何の予定もない休日、溜まっていた洗濯物を片付け、部屋を掃除したところで、散歩に出掛けた。明るいうちに歩く地元は新鮮だ。古い蕎麦屋の

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日比谷の書店員のリアルな日常、街の情景、本の話――「日比谷で本を売っている。〔POPと謎解き〕」新井見枝香

※当記事はエッセイ連載の第15回です。第1回から読む方はこちらです。  遅番の日、夕方のピークが終わってホッと一息吐いたころだった。店長の花田菜々子がレジに近付いてきて、私を呼ぶ。この店のいいところは、みんな偉いし、誰も偉くないところだ。肩書きにかかわらず、自由に意見を言い合える。 「見枝香さ、あのメニューって何なの?」  それは本のPOPとして付けた、カードサイズのメニューのことだろう。飲食店を舞台にした小説を集めたフェアだった。その店の特徴的なメニューをイラスト入りで紹

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日比谷で働く書店員のリアルな日常、街の情景、本の話――「日比谷で本を売っている。〔焼き野菜と短歌〕」新井見枝香

※当記事はエッセイ連載の第14回です。第1回から読む方はこちらです。  知人の作家が、Twitterのリプライで焼き野菜の作り方を質問され、なぜそんなことを聞くのかと困惑していた。彼女は料理研究家でも野菜の専門家でもない。そもそも焼き野菜は、野菜を焼いただけである。投稿した写真には、焦げ目が付くほどしっかり焼いた白菜と、茹でて酢味噌を添えたホタルイカ、皿にたっぷり盛っただけの生ハムが写っていた。統一感がなく、器もバラバラである。つまり今日は何でもない日で、いつも通りの晩酌タ

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