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私たちが生きている世界は〝本物〞なのか? 現代の代表的哲学者によるテクノロジー + 「心の哲学」探求の最先端

 VR(仮想現実)やAR(拡張現実)、メタバース(仮想空間)の普及により、「現実」のとらえ方が激変した現代。哲学の鬼才が「リアリティ(現実)」とは何かという哲学的難問に挑戦!
 現代哲学の第一人者デイヴィッド・J・チャーマーズによる『リアリティ+(プラス)~バーチャル世界をめぐる哲学の挑戦』(上下)が、NHK出版より3月25日に発売となりました。今までの常識や既成事実であったはずの現実(リアリティ)の認識が覆され、根本から思考の転換をうながす衝撃の哲学書です。
 刊行を記念して、本文の一部を特別公開します。*本記事用に一部を編集しています。


荘子の蝶の夢

 荘子(荘周)は紀元前300年ごろの古代中国に生きた哲学者で、道教の始祖のひとりだ。彼は「胡蝶こちょうの夢」という有名な故事でこのシナリオを語っている。

 あるとき荘子は自分が胡蝶(蝶のこと)になった夢を見た。ひらひらと飛びまわり、彼はとても幸せで、飛んでいることが楽しかった。自分が荘子であることを知らなかった。突然に目が覚めると、自分は荘子でたしかにそこにいることがわかった。だが、はたして自分は蝶になった夢を見ていたのか、それとも今の自分は蝶が見ている夢なのかわからなかった。

 荘子は、自分が経験している荘子としての人生が本当のものかわからなかった。蝶のほうが本物で、荘子は夢かもしれない。

 夢の世界は、コンピュータのないバーチャル世界だと言えるだろう。自分は今夢の中にいるという荘子の話は、自分は今バーチャル世界にいるという説のコンピュータをなくしたバージョンなのだ。
 ウォシャウスキー姉妹が脚本を書き、監督をした1999年の映画『マトリックス』のプロットには、すばらしい類似が見られる。主人公のネオは平凡な生活を送っていたが、あるとき赤い薬を飲んで寝て、目覚めると別の世界にいた。そこでネオは、彼がいた世界はシミュレーションだと聞かされる。もしもネオが荘子のように深く考えたならば、こう思っただろう。「前の人生が本物で、今の新しい人生がシミュレーションなのかもしれない」。そう考えて当然だろう。退屈でつまらない前の世界に比べて、新しい世界は戦いと冒険の世界で、ネオは救世主として扱われているからだ。ネオが飲んだ赤い薬はしばらくのあいだ彼の意識を失わせ、そのあいだにネオは、ワクワクするシミュレーションの世界と接続されたのかもしれなかった。
 ひとつの解釈において、荘子の「胡蝶の夢」は知識に関する問いを提起する。「自分が今、夢を見ていないとわかる人はいるのか?」。これは以下の問いの親戚だと言えよう。「自分が今、バーチャル世界にいないことをわかる人はいるのか?」。
 これらの問いはもっと根本的な次の問いにつながる。「自分の経験していることが本当のことだとわかる人はいるのか?」

バーチャル世界はリアルなのか錯覚なのか?

 VRについて議論されるとき、いつも同じ文句がくり返される――シミュレーションは錯覚だ。バーチャル世界はリアルではない。バーチャルの事物は本当には存在しない。VRは真の実在ではない。
 この考えは映画『マトリックス』の中でも見られる。シミュレーションの世界にある待合室で主人公のネオは念力でスプーンを曲げている少年を見かける。ふたりは会話を交わす。

少年  スプーンを曲げようとしちゃダメだよ。それは無理。その代わりに真実を見ようとすればいいんだ。
ネオ  真実って? 
少年  スプーンなんてないんだ。

「スプーンなんてない」という言葉が深遠な真実として提示される。マトリックス内のスプーンは本物ではなく錯覚にすぎない。それが含意するのは、マトリックスの中で経験することはすべて錯覚だということだ。
 アメリカの哲学者のコーネル・ウェストは映画『マトリックス・リローデッド』と『マトリックス・レボリューションズ』の両編に地下都市ザイオンのウェスト評議員役で出演したが、マトリックスから覚醒することについてウェストはこう発言している。「あなたが覚醒したと思うことも、別の錯覚かもしれない。端から端まですべて錯覚なのだ」。

 私の考えはこうだ。シミュレーションは錯覚ではない。バーチャル世界はリアルだ。バーチャルの事物は真に存在する。マトリックスの少年は次のように言うべきだったと思う。真実を見ようとすればいいんだ。ここにスプーンがある。それはデジタルのスプーンなんだ。ネオの世界は完全にリアルだ。
 これは私たちの世界にも当てはまる。たとえ私たちがシミュレーションの中にいたとしても、その世界はリアルなのだ。そこには依然としてテーブルも椅子も人も存在する。町もあれば、海も山もある。もちろんそこには多くの錯覚が存在し、私たちは自分の感覚にだまされ、人々にだまされることもあるだろう。それでも私たちのまわりにある普通の事物はリアルなのだ。

バーチャル世界で良い人生は送れるのか?

 SF作家のジェームズ・E・ガンが1954年に著した『不幸な男』という小説では、ヘドニクスという企業が「幸福に関する新しい科学」を用いて、人々の人生をよくしようとする。人々は「センシーズ」という一種のバーチャル世界に移る契約書にサインをする。センシーズではあらゆるものが完璧に整えられていた。
 われわれはあらゆるお世話をいたします。あなたが人生で二度と困ることのないようすべての準備をします。この不安の時代に、あなたは二度と不安になることはありません。この恐怖の時代に、二度と恐怖を覚えることはありません。衣食住はつねに満たされていて、つねに幸福です。あなたは愛を与え、愛を受けとるでしょう。あなたにとって人生は純粋な喜びなのです。
ガンの描く主人公は、ヘドニクス社に人生すべてをゆだねるのを拒否した。
アメリカの哲学者ロバート・ノージックは1974年の著書『アナーキー・国家・ユートピア』で、読者に同種の選択を提案した。
 あなたが望む経験を何でも与えてくれる「経験機械」があるとしよう。優秀な神経心理学者たちがあなたの脳をシミュレートして、望みをかなえてくれる。それによって、偉大な小説を書く、友人をつくる、おもしろい本を読むときの思考と感情を経験できる。そのあいだ、あなたは水を張ったタンクの中に浮かんでいて、脳には電極がとりつけられている。あなたはこのマシンのプラグを差しこんで、人生の経験をプログラムし直すべきだろうか?
 ガンのセンシーズとノージックの経験機械は一種のVR機器だ。ふたりは尋ねる。「選べるならば、この種のつくられた現実にあなたの人生を費やしますか?」
 ガンの主人公と同じように、ノージックも「ノー」と言い、読者にも同じことを期待する。ノージックは経験機械を二流の実在だと見ているようだ。ユーザーはマシンの中で経験していることを実際には経験していない。これでは真に自律した人間とは言えない。ノージックによると、 経験機械の中での人生はたいして価値も意味もないのだ。
 ノージックに賛同する人は多いだろう。2020年に哲学を職業とする人々に尋ねた調査では、経験機械に入りたいと答えた人は回答者のわずか13 パーセントで、 77 パーセントが拒否した。より規模の大きい調査でも、ほとんどの人がノーと答えた。だが、バーチャル世界が身近なものになっている今、イエスと答える人の数は増えつつある。
 一般的なVRに関しても同じ質問ができる。VRを体験する機会があったら利用しますか? それは妥当な選択ですか? あるいは、価値の問いを直接ぶつけてみてもよい。「VRで価値や意味のある人生を送れますか?」
 普及しているVR機器はノージックの経験機械とは異なる点がある。VR世界にいることを自覚しているし、多くの人が同じVR環境に入ることができる。さらに一般のVR機器はあらかじめすべてをプログラムしてはいない。インタラクティブなバーチャル世界では、台本どおりに動くことよりも、その場その場で選択をしていくことが多い。
 それでもノージックは、2000年のフォーブス誌の記事で、経験機械への否定的評価を一般のVR機器まで広げた。「たとえすべての人が同じVRに接続したとしても、そのコンテンツを真にリアルなものにするには充分ではない」。VRについてはこうも言った。「これが与える喜びは大きいので、大勢の人が昼も夜も多くの時間を費やすだろう。その一方で、残りの人々はそうした傾向を深く憂慮するのだ」
 フルスケールのVRでは、ユーザーはみずからの選択によって人生を築いていき、周囲の人と深く交流し、意味も価値もある人生をかなえられるのだ。VRは二流の実在ではない。
 2003年に運営を始め、これまでバーチャル世界を牽引してきた「セカンドライフ」は、 日々の暮らしを築いていくサービスだが、そうした既存のバーチャル世界でさえも、とても価値のあるものになりうる。今のバーチャル世界には、適切な体や触覚、飲食の感覚、誕生と死など足りない要素は多いが、それでも大勢の人が意味のある関係を結び、アクティビティを楽しんでいる。足りない要素の多くは、将来登場する完全没入型VRによって克服されるはずだ。原理的に、VR内での生活は、現実と同じくらい良くも悪くもなる。
 すでに大勢の人がバーチャル世界で膨大な時間を費やしている。未来においては、もっと多くの時間を、あるいはほとんどの時間をVR内で費やすことも選べるだろう。そして私の予測が正しければ、それが妥当な選択にもなりうる。
 これをディストピアだと思う人も多いだろうが、私はそうは思わない。たしかにバーチャル世界は現実世界と同じようにディストピアにもなりうるが、それはバーチャルだからという理由によるのではない。大半のテクノロジーと同じで、VRは使い方によって良くも悪くもなるのだ。


続きは、『リアリティ+(プラス)~バーチャル世界をめぐる哲学の挑戦』(上下)でお楽しみください。

CLAUDIA PASSOS

著者紹介
デイヴィッド・J・チャーマーズ

1966年オーストラリア、シドニー生まれ。哲学者および認知科学者。ニューヨーク大学哲学教授、同大学の心・脳・意識センター共同ディレクター。アデレード大学で数学とコンピュータサイエンスを学ぶ。オックスフォード大学でローズ奨学生として数学を専攻後、インディアナ大学で哲学・認知科学のPh.D.を取得。ワシントン大学マクドネル特別研究員(哲学・神経科学・心理学)、カリフォルニア大学教授(哲学)、アリゾナ大学教授(哲学)、同大学意識研究センターのアソシエイトディレクターなどを歴任。専門は心の哲学、認識論、言語哲学、形而上学。2015年ジャン・ニコ賞受賞。著書に『意識する心――脳と精神の根本理論を求めて』(白揚社)、『意識の諸相』(春秋社)など。

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