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恋かもしれん。――「ことぱの観察 #10〔恋(後編)〕」向坂くじら

詩人として、国語専門塾の代表として、数々の活動で注目をあびる向坂くじらさん。この連載では、自身の考える言葉の定義を「ことぱ」と名付け、さまざまな「ことぱ」を観察していきます。


恋(後編)

 かように恋に疎いわたしだが、一度、これは恋だろうかと思ったことがある。
 通っていた大学のキャンパスには、建物の裏手に一本の銀杏の木が立っていた。ふだん講義を受けたりサークル活動をしたりするときには通らない道を、さらに並木の中へ分け入ったところに、その木はある。わたしはときどきその木の足元で過ごした。落ち葉が土を覆っていて、地べたに座ってもそこまで服が汚れないところもいい。木の幹は太く、隆起していて、もたれるのにちょうどよかった。寒すぎも暑すぎもしない季節なら、根っこを枕に居眠りもできた。どこでも眠れるのが長所なのだ。
 大学は、中高よりは居やすい場所だった。人づきあいの苦手なわたしにとって、人が多いぶんひとりひとりとの付き合いが薄くていいのはありがたかったし、固定されたクラスや仲良しグループにかかずらう必要もなく、渡り鳥のようにいろいろなコミュニティに片足ずつ突っ込んでいられるのもよかった。それでもときどき、キャンパスを無数に行き交う同年代の男女から逃げ出したくなった。自分のいる場所が定まっていないのは居心地よくもあるけれど、同時に不安でもある。それはわたしだけではないようで、みんなしきりに自分の話をしたり、またうわさ話をしたりして、自分が集団の中で置かれる立ち位置をさぐりあっているようだった。わたしの立ち位置はたいがい危うく、変な人、ということになるか、反対に変な人を気取っているちょうどそのぶんだけ凡庸な人、ということになるか、もしくは単にいてもいなくても変わらない人になるか、のいずれかだった。そんなに気にしていないつもりだったけれど、ときどき体調が悪い日なんかには、その陣取りゲームがうっとうしくなった。そういう日には、知っている相手と行き合うことも、知らない相手に囲まれていることも、どちらもいやになってしまう。それで銀杏の木の下に逃げこんで、ひととき他人の視線から逃れるのだった。
 その点、木というのは眼がないからいい。木のそばにいるときには、自分が何者であるかを考えない。話しかけられないから返事をしなくてもいいし、いつでも同じ場所に立っているから待ち合わせも必要ない。それでいて、ひとりぼっちでいるという感じもしない。わけもなく木の下に座っていることをくりかえすうちに、だんだん木の細かい特徴に目がとまるようになった。いくつかある隆起の数や大きさ、肌のむけかかった箇所、雨があがったあとしばらく手ざわりがしめっていること。それに季節の変わるころには、一日ごとに影の広さがあざやかに変わること。関係を持たずにすむためにここに来ているはずなのに、もの言わぬ木と自分との関係ができていく気がして、そのことは楽しかった。
 そのうち、元気な日でも木の下にいることが増えた。逃げ出したいとか休みたいとかいう理由より、今日の木が見たい、木とともに過ごしたい、という動機のほうがふくらんできていた。それであるとき、はっと思い立った。
 恋かもしれん。
 こんな体たらくだから恋には遅れていて、やっとのちの夫となる男と付きあいだしたくらいのころだった。しかし大学というのはお互いの存在に興味しんしんな男女の集まりなのであって、やれお泊まりだ二股だという話がすぐ身近で聞こえてくる。そのギャップと、そしてどうやら自分の身にもふりかかっているらしい恋なるものの存在に、わたしはおののいていた。夫のことは好きだったし、なによりおもしろかった。恋愛が、という以上に、夫という謎の他人のことがおもしろかった。しかしそれだけが恋の要件ではなさそうだ、それなら恋とはなんだろう。なにをもって知りあいたちは付きあったりふられたりし、なにをもってこの人はわたしと一緒にいてくれるのだろう。人によって違うなんて言い出すといっそう身も蓋もない––––。
 それで、木に向かったときの自分のてらいのない気持ちが自分でも新鮮だった。わけもなく会いたくなるのも、小さな特徴や変化がうれしく気にかかるのも、恋の周辺に聞きかじったことがある。そのころのわたしに恋がおそろしかったのは、まさに立ち位置を取りあうような人間関係の熾烈さが恋と堅く結びついているように思えたからでもあった。しかし木とわたしとが恋に似るならば、恋というのはひょっとしてこの、自分が誰でもよくなるようなあっけらかんとした開放の可能性もまた、持っているものなのかもしれん。

 「え、旦那さんとどこで知りあったんですか? くじら先生から付きあおうって言ったんですか? てかなんで結婚したんですか?」
 高校生の生徒にそう矢継ぎ早に聞かれ、わたしはむずかしい顔をしてごまかしていた。夫の出てくるエッセイ本を書いてからというもの、この手の質問は生徒以外からもよくされる。しかし、どうも答えづらい。自分の答えが相手の期待に沿えないことがはなからわかっているからだ。
 対策として、定番の「どこが好きなんですか?」にだけは決まった答えを準備してあり、「わたしと心中しないところです」というのがそれだ。わたしとしてはかなり夫のいいところ、そしてわたしの弱いところをいい具合に表した答えだと思っているのだが、しかしトークイベントでお客さんの質問にそう答えたら、微妙な顔をさせてしまった。へんな間が空いて、お互いに苦笑する。
 「いま、そういうことじゃないんだよな、と思っていますか?」
 「はい、もっとこう、おノロケが聞きたかったんです……」
 まあ、わかるような気もする。しかしわかったからといって、おもしろいおノロケというものを、うまく出力できるわけではない。生徒に対しても、いちおう聞かれるままに答えてみる。
 「大学で知りあって、口説かれたから付きあって、プロポーズされたから結婚したよ」
 生徒は、へえ、だか、はあ、だかいうような、気のない声を出した。すまないと思いつつ、わたしの方でも彼女に聞いてみたいことがあった。
 「人の恋の話というのは、やっぱりおもしろいもんですか?」
 わたしは、彼女が恋愛ものの二次創作小説を書いていることを知っていた。わたしの感想がほしいと言って見せてくれたのだ。漫画やアニメが好きな知りあいは思春期以降たくさんいて、二次創作という分野にも多少なじみがある。原作がどんなに好きでも、恋愛の話となるとどれも似たような話に見えてしまう。たぶん、知らないアイドルがみんな同じ顔に見えるのと似たようなことで、つまりわたしには恋愛の話を楽しむ才能がない。考えてみれば大学生のころも同じだ。変わっていておもしろいと思った相手も恋愛をはじめると、記念日に写真を撮り、プレゼントを交換し、みんな似たように浮き足立った。それが均質に見えてしまうことが、わたしの興味を削ぐのだった。
 生徒は間髪をいれず、「おもしろいですねー」と答えた。
 「きみ、小説も書くじゃないですか。好きなキャラの恋愛がおもしろいってことはあるんだろうけど、それでわたしの恋愛もおもしろいの? 恋愛そのものが好き?」
 「うーん、まあ、そうですねー。恋愛そのものがっていうか、この人は恋愛するときどんな感じなんだろう!? みたいなのが好き?」
 「たとえばきみの好きなキャラでいうと、原作でスポーツしてる姿だけじゃ足りなくて、恋愛してるところが見たい?」
 「見たくないですか!?」
 「うーんまあ、見たい、のかもしれないけど、でもたとえば試合中のその子の方が、その子の魅力が出てる、みたいなこともあるのかなって……わたしが人の心に欠けているせいとは思うんですけど、恋愛って、結局誰がやってもざっくり同じに見えちゃうんですよね……」
 敵意がないことを示したくて、慎重に言葉を選びながらたずねると、彼女の声が一段階高くなった。
 「その! ギャップがいいんじゃないですか!! 天才高校生だけど、恋愛してるときは普通の男の子、っていうのが!」
 「えっ、そうなの?」
 「そおおですよ!」
 これには感心した。そうかもしれない。わたしの鈍さが恋愛を均質な、ありふれたものに見せていたのではない。ありふれていることこそが、恋愛の魅力であるというのだ。そしてそう思うと、まさにその魅力を享受していたのが、大学で木のそばに腰かけるわたしじゃないか。こう言うのはどうだろう。わたしたちは、他人の中で自分が何者であるかをいつも知りたがっている反面、その影でひどくありふれている自分というものにくたびれている。しかし恋愛関係という、もともとの集団からふたりで、もしくは何人かで一歩離れるような関係が、はじめてそれを許すのではなかろうか。いろいろな人と付き合ったり別れたりするという交際のシステムが成り立つのは、恋が代替可能で、どこにでもあるからにほかならない。同時に何人でも作っていいことになっている友だちの方が、むしろ代替不能なのではなかろうか。だから恋をしているときには、ありきたりな決めごとをおそれないし、他人の恋と自分の恋とが均質になることをおそれない。その凡庸さ自体が目的であり、集団にくたびれたわたしたちを癒やすのだ。

 さて、もう一度だけ懲りずに、「恋と愛の違い」に戻りたい。それではなぜわたしたちは、わざわざ恋と愛とを呼び分けて、さらには愛の悪い部分を恋の方へ押しつけるようにして、そのことを語りたくなるのだろうか。「恋は自分と同じ部分を好きだと思うけれど、愛は自分と違う部分を好きだと思う」「恋は自分の幸せを願うけれど、愛は相手の幸せを願う」。そんなふうに言うときおこなわれているのは定義ではなく、愛(と仮定した、なにかよいもの)のキャンペーンにすぎないが、しかしそれだけではない。それはまた、自分のいままさにやっているこの関係をうたがいなく肯定するためのキャンペーンとして機能するのではないか。
 恋はありふれていて、さらにそのことをよしとするとしよう。しかし関係が続くうち、快かったはずの自分たちの凡庸さが、今度は疎ましくなってくる。もとの集団から独立したはずの新しい関係もまた、次には自分のある立ち位置を規定するものにならざるをえないからだ。そういうとき、こう言いたくなるのもうなずける。自分たちのしているこれはもはや恋ではない、なにかそれ以上のものである、と。「恋と愛の違い」は、そういうときに根拠のように機能する。恋をしている人は大勢いるだろうけど(なにしろ恋とはありふれているものだから)、この関係はそれとは異なる、もっと希少で特別なものなのだ、と言いたい衝動に、恋をしたものはいずれ駆られるのではないか。だから恋は未熟なものとして、いつも「けれど」の前に置かれる。
 つまり恋というものはまた、かならず経過でもある。集団をのがれ、ありふれていられることのために作られる新しい関係が恋の要件であるのなら、恋はいつか古びることをはじめからその内に含んでいる。する方だってはなからそのことはわかっていて、だから期待をかける。恋の関係の先に、もっと値打ちのあるよい関係、希少な関係が待っていることに。

恋(あらためて):
ありふれていないことを要請する集団を離れて、自分たちがありふれていることを楽しめるような、小さくて新しい集団を作ること。それでいてその小さな関係が、なかなか得がたいよい関係、ありふれていない関係としての愛への途上である、と期待すること。

 ある理想を掲げ、そしてその地点と同じ線上でつながっていること、少なくともそう期待できることが、恋の核心なのではないか。わたしが所詮恋エアプで、恋愛もののおもしろさもわからなければ、恋する気持ちそのものも本当にはわかっていないとしても、遠くて簡単には手に入らない理想をあこがれる気持ちなら、なんとかわかるような気がする。

 さて、恋を定義し終えたものの、ささいな課題が残った。次に夫の好きなところを聞かれたらなんと言おうか。生徒の言葉を信じるならば、そう尋ねてくる人たちというのは、まずわたしという人間のありふれたところに興味を持ってくれているらしい。恋の話にそんなに関心を持たないわたしだって、そのことはしみじみとありがたい。自分のあまりの凡庸さが相手を退屈させてしまうことをおそれないでみるとして、ひとつ新しい答えを出してみよう。ありふれていて細かなこと、そしてある程度は限定されるけれど、実際にはある程度代替可能であることがいい答えなら、こんなのはどうだろう––––足のサイズが大きいところ。
 どうだろうか。これが成功しているのかどうか、自分ではまったく判別できない。まだ「わたしと心中しないところ」の方がマシじゃないだろうか。というか、「心中」も一応上記の要件はそろえていないか。定義ができたからといって、実際の扱いかたが身についたと思ったら大間違い。言葉で言いあらわすことにはこういう脆弱さがあることを忘れてはいけない。

 それから、もうひとつのささいな課題。
 エスちゃんや、その他わたしのおノロケを待つ人たちが口をそろえて言う、「ドキドキしたりしないの?」というやつだ。ありふれたものに、そしてその先にある理想にあこがれる気持ちがわかったと言っても、まだ「ドキドキする」を宙吊りにしたままだ。恋エアプの謗りをまぬがれたとは言いがたい。
 ただ、実はわたしは、「ドキドキ」に代表される身体的なリアクションは、べつに恋とは関係ないと思っている。ではなにか。それこそがあの悪名高い、欲望というやつではあるまいか。


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プロフィール
向坂くじら(さきさか・くじら)

詩人、国語教室ことぱ舎代表。Gt.クマガイユウヤとのユニット「Anti-Trench」で朗読を担当。著書『夫婦間における愛の適温』(百万年書房)、詩集『とても小さな理解のための』(しろねこ社)。一九九四年生まれ、埼玉県在住。

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