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愛するためには、愛に抗わなくてはならない――「ことぱの観察 #14〔愛する〕」向坂くじら

詩人として、国語専門塾の代表として、数々の活動で注目をあびる向坂くじらさん。この連載では、自身の考える言葉の定義を「ことぱ」と名付け、さまざまな「ことぱ」を観察していきます。


愛する

 愛のことを考えたかっただけなのに、ずいぶん離れたところまで来た。愛のまわりをぐるぐる遠回りするように試してきた定義を、ここで一度見なおしてみたい。

好きになる:
自分の一部にしたいと思ったものが、しかし自分ではないとわかること。それでいて、他者であるそのものを好きな自分、つまり対象そのものではありえない自分を、よしとできること。

恋(あらためて):
ありふれていないことを要請する集団を離れて、自分たちがありふれていることを楽しめるような、小さくて新しい集団を作ること。それでいてその小さな関係が、なかなか得がたいよい関係、ありふれていない関係としての愛への途上である、と期待すること。

ときめき:
相手が自分の思い通りになってほしいと思っているのに、それが達成されるかが不確実なときに起きる不安。それに伴う身体的なリアクション。

性欲:社会の中に自分の性的な役割があることを願い、自分をそれに任命してくれる相手を探し求めること。自分と相手とを、自分の望む社会的な性関係の中へ当てこもうとすること。

つきあう:自分が相手と居合わせたということだけを理由にして、実際にはしなくてもいいことをすること。

 なにかを「好きになる」には相手と自分とを混同せずに済むほどほどさが必要で、愛という言葉がときに背負わされるあの重さや危うさ、はるばるとした逸脱はその向こうにある。「恋」とは愛を仮定した上での期待であるとしたら、「愛と恋の違い」からわかるように、そもそも愛とは異なること自体が「恋」の要件にふくまれるようだ。だから恋とは愛ではなく、そして「ときめき」もまた違う。ときめきという身体的なリアクションが起こるのは愛のあるからではなく不安があるからで、わたしたちがときに他人に「性欲」を向けたくなるのもそれと似ている。性欲がまず望むのは、目の前にいる相手との関係よりもむしろ、もっと広い人間関係のなかに内包された既存の関係であるように思え、わたしにはそれがどうも愛とは似て見えない。つきあうことはもっとも愛の気配を感じさせたけれども、しかしやはり、それ自体がすなわち愛というふうには言えないだろう。
 こうしてふりかえってみると、ここまでおこなってきたのはみんな、「Aは愛ではない」という消去法だった。愛がなにかということはわたしにとってこの上なく重大な問題で、愛についてなにかを言おうとすると、ぐっと身体が力んでしまう。そして力んだ身体は、なにかを考え、言葉にすることに向かない。だからわたしにはこの迂遠な道のほか、愛に近づく道が見つからなかった。とくに、ひとつひとつの言葉について、あくまで自分の生活上の問題や手ざわりから出発しようと思ったら。「愛はAである」はいつまでも言えず、かろうじて言えるのは「Aは愛ではない」ばかりだった。半分は愛から逃げ回るような、それでいてもう半分はじりじりと這い寄っていくような、ふしぎな道のりだった。ぐるぐる回りはじめる前の「友だち」や「やさしさ」や「敬意」だって、その道の一部だったかもしれない。
 正直に言えば、その道のりでさえ「Aだとしたら、Bだと言える。Bだとしたら……」というような仮定のくりかえしでしかないように思えて、とても頼りない。いままさに、自分のこしらえた紙の橋の上を、えっちらおっちら渡ろうとしているように思える。それに、愛のところに来るまでに、本当はもっといろんな言葉を経由したほうがよかった気がしてならない。たとえば約束すること、養うこと、あわれむこと、問うことと答えること、ふれること、それから死ぬこと、わたしにはどれも愛と関係して見える。けれどもそれを素通りしてきてしまった。遠回りと言いながらも、しかしまだ近道をしすぎたような気もしている。
 とはいえここまで来たのだから、ともかくどこかで腹をくくって、愛について書きはじめないといけない。どうして愛がそうもわたしに重大かといえば、それが他人の問題にほかならないからだ。わたしにはなにより、他人のことがよくわからない。さんざん困らされてきたし、困らせてもきた。ここまで書いてきたように、くりかえし告白にうんざりし、くりかえしくびになり、もっと昔には登校拒否をした。明るい接客にひるみ、友だちとやりあい、夫ともやりあって、首をかしげながら暮らしてきた。そしてだからこそ、ずっとひりひりと興味がある。言葉の意味を考えているときにも、いつも同時に他人のことを考えている。「他人のことを考えている」というとまるで気づかいのようだがそうではなく、物陰からいじましく盗み見するようにして、単に「他人」そのもののことを考えているのだ。
 そして他人の問題は、どこかで愛の問題に行き当たってしまう。ふたたび消去法を使って言えば、愛は性愛にかぎられないし、キャンペーン的に喧伝されてきたようなよいものにもかぎられない。だからどんな関係の、どんな他人のことを考えるときにも、やっぱり愛のことが問題になる。もはや愛を希少な、疑いなくよいものとは思わない。愛はあちらこちらにめちゃくちゃにあり、ときに不完全で、うとましい。そのような愛について、どんな言葉なら語れるだろうか?

 愛について考えるとき、「マリア・ブラウンの結婚」という映画を思い出す。映画は結婚の誓いの言葉と、そして爆音からはじまる。戦渦のベルリン、マリア・ブラウンが夫となるヘルマンと入籍しようとするまさにそのとき、戸籍役場が爆撃を受けたのだった。新郎新婦も役人もみな地面に身を伏せ、書類が白く舞い散るなかで、マリアとヘルマンは夫婦になる。しかし間もなくヘルマンは出征し、ドイツは敗戦を迎える。
 マリアは、半日と一晩しか夫婦として過ごしていないヘルマンを、生きていると信じて待っている。けれど同じく出征していた友人が戻ってきてヘルマンが死んだことを告げられると、米兵の男と結婚し、その男の子どもを妊娠する。マリアはお腹の中にいる子どもが男の子であると信じきっており、さらには顔馴染みの医者に、子どもに「ヘルマン」と名づけることを宣言する。しかしヘルマンは生きており、ある晩うちへ帰ってくる。するとマリアはすぐに後夫をワインボトルで撲殺し、ヘルマンがその罪をかぶって刑務所に入ることになる。結局胎児が産まれることはなく、マリアは服役中のヘルマンのために仕事をはじめるが、同時に勤め先の社長であるオズワルトの秘書兼愛人となる。
 マリアのすることは、観ているこちらの予想をつねに裏切る。一途でひたむきな女だと思っていたらあっさりと再婚し、かと思えば死んだ(と思っていた)夫の名前を子どもにつけようとする。まだ子どもの性別もはっきりしていないのにだ。ヘルマンが帰ってくるなり力づよく後夫を殺したにもかかわらず、身代わりにヘルマンが服役することはなぜか受け入れ、さらには新たな愛人まで作って、刑務所で面会したヘルマンにみずからその不貞を打ち明け、けれど愛しているのはあくまでヘルマンで、それとこれとは話が別だから心配ないと説いたりする。観ているとそのひとつひとつ、ヘルマンへの愛かもしれない、といったんは思うけれど、そのたびにすぐ裏切られる。これも愛だろうか、と、いやさすがに違うかもしれない、をくりかえすうち、マリアの行動が目の前にずらっと並び、さて、どこまでを愛と呼べますか、と問われているような心持ちになる。
 当然わかるはずもなく、しかしそれでいてマリアにははじけるようなエネルギーがあって、話が進むほどにわたしもマリアを好きになっていく。出てくる男たちが、苦境に追いやられるヘルマンさえも、どうしようもなくマリアに惹かれていくのもうなずける。マリアは敗戦直後のドイツで英語を身につけ、愛人という立場まで利用して、ぐんぐん社会的な地位を得ていくのだ。ときに母親やヘルマンに「冷淡だ」「人が変わった」と言われてもすずしい顔をしている。女の身を生き延びるために、そしてやはりどうやらヘルマンを愛するために、善悪さえない交ぜにしてあらゆることをおこなうマリア。たびたび語られるように愛がすなわち行為のことを指すのならば、彼女のような生きざまが愛そのものだと言えるだろうか。
 けれどもわたしには、マリアを愛するふたりの男のほうが気にかかる。夫のヘルマンと、愛人であり上司のオズワルト。物語の中盤、オズワルトが面会にあらわれたことでふたりは顔をあわせる。最後にオズワルトは病で先立ち、そのときに財産の半分をマリアに、そして残りの半分をヘルマンに譲渡する。それを聞いたヘルマンの顔が鏡越しに画面に映る。出所したばかりでマリアとはどうも会話の噛み合わなかったヘルマンはそのとき、なつかしむようなほほえみをわずかに浮かべる。ともにマリアにふりまわされ、互いに嫉妬もしたふたりがしかし、そのときはマリアを置き去りにして、深くむすびついたように見えるのだ。オズワルトの遺言は、このようにしめくくられる。

深い愛を知る者のみが/他者の愛に敬意を表する/献上こそ支配者の美徳/ブラウン氏こそ–––/その支配者となるにふさわしい

 わたしが夫と結婚して、四年が経った。夫は朝が早い。出かける前にはいつも、布団の中にいるわたしに出発のあいさつをしにくる。わたしはまだ日の上らないうちに起こされたと思ったらもう夫が行ってしまうというので、いつもなにか納得がいかない。それでかならず、「だめだよ行ったら」と止める。まだだめだよ、もうちょっといなよ、いいよ行かなくて。夫は決して首を縦にふらない。かたくなに「行ってくるよ」とくりかえす。四回、五回そのやりとりをしたあと、わたしがあきらめて二度寝の姿勢に入ると、夫は点きっぱなしになっていた常夜灯を消し、静かにドアから出ていく。毎朝のことだ。
 ほとんどの場合はそのまま再び眠るが、ときどきどうも寝つけないことがある。そういうときはひっそりと障子をあけて、夫が家の門を出ていく姿を二階の窓から見ている。そのときもやっぱり、行くな、行くな、と思っている。身体の一部がちぎれて、持っていかれるような気持ちになる。遠ざかっていくスーツ姿の背中、その通ったあとに、点々と血が落ちていることを考える。わたしの血だ。
 一緒に暮らして四年も経つと、ときどき夫を自分とまちがえる。おおむね毎晩同じものを食べ、おおむね毎晩ともに眠って、おおむね同じようなことで笑う。そうすると、夫の行動におおむね予想がつくような気がしてくる。自分が拡張されて、ただの自分よりもすてきな存在になれた気になってくる。そしてそのことが、のんびりとうれしい。だからときどき、夫がわたしにはおもしろくないものを観ていたり、わたしにはおもしろくない相手と会いたがったりしていると、ぎょっとする。うっかり忘れかかっていた、夫がわたしとはべつの個体であるということを、強烈に思い出させられる。
 朝もそう、飲み会もそう、そのたび追いすがって自分のほうへ押しとどめたくなるのを、いつもすんでのところでこらえている。わたしの血が流れるのが見えてくると、そのみにくいのに、自分でうんざりする。そして思う。愛があれば自然と他人を尊重できるなんてうそだ。わたしが未熟なだけかもしれないけれど、少なくともわたしの中にそのような自然さはない。夫を愛するほどに、わたしは他人である夫を、その他者性を尊重しそこないそうになる。よっぽどそちらの方へ自然に流れていく。
 唯一愛のおこないであると言えそうなのはむしろその、こらえようとする力のほうだ。反射的にわたしを押しとどめ、さっきまでつながっているように思えた皮膚から血を流させて、しかしその場に立ち尽くさせる、あの力。文字通り身を切るような、手痛い忍耐の力。わたしにとってはまったく愉快ではない、そしておそらく夫にもなにが起きたかわかっておらず、愛の実感を与えることもない、あの痛みの瞬間が、愛によるものではないかと思うことがある。

 運営している国語教室で子どもたちを教えるときにも、ふと同じような痛みの前に立たされる。毎週子どもたちと会っていると必然的に、彼ら彼女らの苦しみや喜びについて話を聞き、いっしょに悩み、また来週ね、と言ってはその経過をともに追うことになる。受験ももちろんそのひとつだがそれだけではなく、勉強のほかにも家族の問題や友だちづきあいの問題をよく聞かせてもらう。毎週話を聞きつづけていると、こちらもどんどん他人事ではなくなってくる。わたしは生徒たちのことが基本的に好きで、ちょっとすると彼らが喜んでいるのが自分のことのようにうれしく、また苦しんでいるのが自分のことのようにつらく思えてしまう。それが教えるものとしての美徳である、とは、まったく思わない。悪いことであると思う。簒奪にほかならないと思う。
 生徒のことでわたしが苦しんだ結果ついついわかったふりをしてしまう、という事態をおそれるのはもちろんのこと、喜ぶことでさえも簒奪である。大袈裟でなく、彼ら彼女らのためになるならばわたしのできるかぎりをしてやりたいと思うけれど、しかしそれが結局わたし自身の喜びや苦しみだけのためになってしまうのなら、やはりおそろしい勝手にならざるをえない。なにより、夫を愛するあまりに自分とまちがえるように、生徒たちを愛するあまりに自分とまちがえてしまったら、と思うと、わたしにはそれが怖くてたまらない。
 だから、ときどき自分に強く言いきかせる。大切に思うほどに、子どもたちの感情も問題も決して自分のものにしてしまわないよう、まずは注意深く自分と切り離すところからはじめないといけない。夫に対するときと同じように、強くこらえなくてはいけない。そして、あくまで自分とはべつの存在である彼ら彼女らのために、だからこそできるかぎりをしないといけない。ときにおこなわないということさえ、できるかぎりをおこなうということのうちであるように。
 ヘルマンとオズワルトの痛みのことを思う。マリアの不実に苦しめられながら、しかし刑務所でひそかにマリアを共有する約束を交わしていたふたりの男。マリアを愛しつづけようとした結実としてマリアの不実を見のがし、マリアにそれを知らせさえしない。マリアがヘルマンに対するみずからの愛にかしずくようにあらゆることをおこなうのとは対照的に、ふたりはむしろおこなわないことのほうを選ぶ。ここまでで、映画の大まかなあらすじはかなり終盤まで書いてしまったけれど、このあとにさらに観るものを裏切るようなラストがあることは書かないでおきたい。しかしともかくそのラストシーンで、これまで勝ちつづけてきたマリアは、あきらかに敗けるのだ。
 つまり、こういう矛盾をふくんだ言いかたがはじめて、愛のすがたをあらわすのではないか–––愛するためには、みずから愛に抗わなくてはならない。ふたたび、消去法へと戻ってくる。愛はほどほどで自己完結することではなく、ある結果を求めて期待したり不安になったりすることでもなく、相手を思い通りにしようとすることでもなく、社会的な役割の中に自分と相手とを当てこもうとすることでもない。しかしそれは、愛が疑いなくよいものであることを意味しない。愛はときに相手を自分とまちがえさせ、簒奪をおこなわせ、他者に対するよりむしろ自分自身の愛そのものに対して従順になるよう誘惑する。そのような乱暴さをふくめたすべてが、ときにおこなわないことまでも愛のうちである以上、わたしたちはもとよりこのような消去法でしか愛を語ることはできなかったのではないか。
 すなわち、愛してしまうことをいかにしてまぬがれ、それでいてなおいかにして愛するか。
 詩人の石原吉郎は、「詩とは何か」という問いに答えてこう書いている。

ただ私には、私なりの答えがある。詩は、「書くまい」とする衝動なのだと。このいいかたは唐突であるかもしれない。だが、この衝動が私を駆って、詩におもむかせたことは事実である。詩における言葉はいわば沈黙を語るためのことば、「沈黙するための」ことばであるといっていい。もっとも耐えがたいものを語ろうとする衝動が、このような不幸な機能を、ことばに課したと考えることができる。いわば失語の一歩手前でふみとどまろうとする意志が、詩の全体をささえるのである。

『石原吉郎詩文集』講談社文芸文庫

 詩にそのような矛盾を見出す石原の言葉を借りるのなら、同じく矛盾をかかえた愛とはいわば、愛するまいとする衝動であるのかもしれない。愛はおこなうことにあるのではない。愛を疑い、注意深く避けることにある。おこなうことよりもむしろ、おこなわずにいようとすることである。しかしそれでいながら、できるかぎり手を尽くそうとすることである。
 実際の順序としては反対に、できるかぎり手を尽くそうとした結果、おこなわないことを選ばざるをえないことが多いようにも思うけれど、しかしあえてこの順番で言いたい。「おこなわないこと」に安住することもまた、「手を尽くす」ことからは外れてしまうと思うからだ。
 つまり、わたしの近すぎる遠まわり(これもまた矛盾をふくんでいる)の果てに残るのは、このような不完全な定義であるらしい。

愛すること:
愛のうちにあり、しかし愛ならざるすべてのことをおこなわないこと。そして、愛のうちにある、そのほかのすべてのことを、できるかぎりおこなうこと。

 どこがとくに不完全かといえば言うまでもなく、「愛」を定義しようとする言葉の中に、「愛」という単語が入ってしまったことだ。それに、「愛ならざること」がしかし愛のうちに含まれているという、どうしようもない矛盾を抱えている。これでは合わせ鏡のように意味どうしが反射しあって、結局ひとつの像もむすばない。それは結局のところ、「愛とは愛である」に近しい、ノンセンスなことを言ったにすぎない。けれどこの、言葉のほうが常にこちらに向かって問いかけてくるような空洞が、やっとわたしのおぼつかない手に、愛のしっぽにふれた感触を起こさせる。


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プロフィール
向坂くじら(さきさか・くじら)

詩人、国語教室ことぱ舎代表。Gt.クマガイユウヤとのユニット「Anti-Trench」で朗読を担当。著書『夫婦間における愛の適温』(百万年書房)、詩集『とても小さな理解のための』(しろねこ社)。一九九四年生まれ、埼玉県在住。

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