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このメイクは、侮りそのものではなかろうか。――「ことぱの観察 #03〔敬意とあなどり〕」向坂くじら

詩人として、国語専門塾の代表として、数々の活動で注目をあびる向坂くじらさん。この連載では、自身の考える言葉の定義を「ことぱ」と名付け、さまざまな「ことぱ」を観察していきます。


敬意とあなどり

 誰かに敬意を払うためにはどうしたらいいのか、ということで、よく悩まされている。たとえば、お金を払ったり、もらったりするとき。わたしの場合はフリーランスなので、ふだん仕事以外でも親交のある人からその日だけギャランティーをいただく、ということがたびたびあるし、その逆もある。そういうとき、なにか指先がぴりっと緊張する。もちろんなるべく失礼な態度はとりたくないけれど、しかしあまりそこでかしこまりすぎると、今度は逆にお金のからまない関係性のほうを蔑ろにしていることになりそうで、落ち着かない。どちらにも適切な立ち位置がないように感じられる。結局、そこだけ急にもの静かになり、叱られているときのようにお金をやりとりしていることが多い。それはわたしなりの相手に対する敬意なのだが、はたして相手にはどう受け取られているのだろう。誰にも確認したことはない。
 もしくは誰かと話しているときに、ふと自分の表情が笑っていないことにおののく。意図しているわけではないけれど、とくに話を聞いている時間、ふと気づくと真顔である。表情筋の感覚でそれがわかる。それまでは表情のことは忘れていられたのに、ひとたび気になるとずっとなにかまちがっているように思えてしかたない。なんだっけ、と思う。なんだっけ、正解は。会話のとき一方が笑っていないと、もう一方を怖がらせてしまうのではなかったっけ。いや、でも、この人も、笑顔があんまり好きじゃない人かもしれないからな……。
 「笑顔があんまり好きじゃない人」というのは、ほかでもないわたしである。あんまりにこにこされると、反射的に警戒してしまう。このやっかいなクセはおそらく、登校拒否の高校生であったころの記憶に端を発している。そのころ、にこにこしながら面談室に入ってくる教師たちが、他でもないそのにこにこでわたしの行動を操作しようとしているのがわかって、それがたまらなく憎かった。いくらわたしが反抗的な子どもであったとはいえ、にこにこしている者に対していきなり怒るのはむずかしい。その、こちらの手心につけこまれている感覚がいやだった。
 それで、自分が誰かに対して話すときにも、ついそのことが気にかかる。とくに年下の人と話すときには。わたしはいまにこにこすることで、相手の苦しい気づかいを巧妙に利用してしまってはいないか。語っている内容ではなく、心の伴わないにこにこに頼って、あるいは元からある不均等な関係性に頼って、会話が成立しているふうに見せかけてしまってはいないか。そしてそれはまさに、敬意を欠いた態度であるように思える。
 けれども、ささくれだった子ども時代から何年か生きてきたおかげで、さすがのわたしにもだんだんわかってきた。どうやら多くの作法では、笑顔を浮かべて愛想よくしていることを、もっぱら敬意の表明であるとみなすらしい。もしかするとあの教師たちも、さしたる意図は持たず、ある作法にのっとってにこにこしていただけなのかもしれない。けれどもしそうであったとして、彼らのにこにこがわたしに不快な作用をもたらしたのには変わりない、ということが怖い。なんなら、それがまさにレディ・メイドな「作法」にすぎないことこそが、わたしを苛立たせていたようにも思う。それでやっぱり、どちらにも立てなくなってしまう。にこにこすることと真顔でいること、ある作法に従うことと従わないこと、どちらも敬意にとっては違っているように思えてくる。

 さて、日本語に親しい者にとって、わかりやすく敬意を示すものの代表格といえばやはり「敬語」だろう。そもそも「敬意」という言葉自体、学校で敬語を習ったときにはじめて意識するものかもしれない。まず小学校で、「敬語は敬意をあらわすために用いる言葉である」と教わる。古典になるとさらに、これは話題になっている人への敬意、これは読み手への敬意、これは自分自身への敬意(自敬表現)……と、「敬意の対象」を見分ける必要が出てきたりもする。
 あんなに敬意に対しておっかなびっくりでいるわたしだから、さぞ敬語も苦手なことだろう、と思われるかもしれない。ところが実際のところ、敬語だけは使いまくっている。敬語で話している時間の方が圧倒的に多いと言っていい。相手が年上だろうが年下だろうが子どもだろうが、むやみに敬語で話す。
 といっても、敬語でなら敬意を使いこなせるから、というわけではない。大学のころ日本語学の講義で教わったことを信じ切っているだけだ。
 「敬意を払っている相手に敬語を使う、というのはまちがいですね」
 教授がいきなりそう言い切ったのは、国文学専攻のオリエンテーションでのことだった。
 「だって君たち、敬意を持っているけれども敬語を使わない友だちもいるし、敬語でしゃべりはするけど敬意は持てない先生だっていくらでもいるでしょ。敬意を表すために使う、というだけでは、実態に即した説明にはなっていないですよ。実際のところは気持ちとは関係なく、『自分は社会的な上下関係や親疎の関係をわきまえていますよ』ということを言葉遣いに反映するシステムが敬語であると言えます」
 わたしには、その話がおもしろかった。おもしろかった、という以上に、なにか、うれしいような気がした。これまで学校で教わっても納得できていなかったこと、それも常識的なことをにわかに覆してもらえたのが、そしてこれから自分はそのような勉強をしていくのだということが、うれしかった。専攻を選ぶにあたって迷わずその教授のゼミに入ったのも、こんなふうに言葉についてつべこべ考えることが好きになったのも、そのときのことを忘れられずにいるからかもしれない。
 だから、敬語はそこまで怖くない。「敬意」などという気持ちに依存したよくわからないことではなく、たかだか社会的な関係のことにすぎないと思えるからだ。敬語を強いるようなコミュニケーションに従わざるをえないときにも、内心ではちゃっかり自分の敬意を切り離し、これは単なる上下関係で、敬意ではないですよ、と思っている。敬語を強要されることは許しても、敬意を強要されることはそう簡単には受け入れられない。
 「年下にも年上にもむやみに敬語で話す」こともまた、消極的に見えるかもしれないけれど、わたしとしてはむしろ積極的にやっていることだ。誰にでも敬語で話すことによって、「敬語で話す」ことの特別性が薄れる。そうするとふしぎと、結局は敬語で話していたとしても、敬意の強要は無効化できるような気がする。赤ちゃんにも敬語で話しかける者の敬語は、もはやなんの意味も持たない。
 そう思うと、敬意の根幹とは、区別をすることであるかもしれない。自分に払われている敬意が、誰彼かまわず振りまかれているものではないと確認してはじめて、わたしたちはそれを敬意として受け取ることができる。敬意が特別なのではない。特別であるから、敬意なのだ。

 敬意:相手がほかの人と区別されるに値するという気持ち。

 と、ここまで考えて、うーんと思う。そもそもは、正しく敬意を払いたいというところから出発したはずだった。そのときに望んでいたのは、敬意を払う相手とそうでない相手とを正しく区別したい、ということだっただろうか。むしろ反対に、誰に対しても区別なく敬意を持って接するためにはどうしたらいいか、ということのほうが、重要なのではなかったか。

 ところで、メイクが苦手でしかたない。正直に言って、できることならやらずに生きていきたい。メイク用品の情報を集めたり、テクニックを洗練させたりしている人たちを見ていると、素直にすごいなあと思うけれど、どうも自分には関係ないことに思えてならない。こんなことでよいのだろうか、しかしかといってやる気にもならない。メイクをしている自分の顔もどうしても好きになれず、避けてきた分いつまでも見慣れることもない、という悪循環。たまに必要に駆られてなにか塗ろうものならその途端に顔が激しくかぶれることも、またわたしの士気を削ぐ。そもそも肌が弱いのだ。
 メイクもまた、敬語と同じように、社会的な関係をわきまえていることを示すものでもある。適切なメイクは大人の礼儀とされているようだし、逆にあえてそこから外れたメイクを共通のコードとする集団もあるらしい。「ギャルになりたい」と言う生徒に「ギャルかそうじゃないかはなにで決まるの?」と聞いてみたところ、ギャルメイクをしているかどうかであるという。
 わたしもまた、年に数回程度はメイクをする。見よう見まねで化粧下地を伸ばし、眉毛のふちだけ冗談のように描いて、赤すぎもピンクすぎもしない口紅をつける。アイラインは落とすときに目にしみるし、チークはどう工夫してもうまくできずに北国の子どものようになるから、あきらめる。わたしがメイクをするのはだいたい、親しくない目上の人と会うときか、あとはもう冠婚葬祭やなんかのちゃんとした集まりに行くとき。
 敬語と同じで、それはあくまで関係の問題にすぎないはずだ。しかしそれでいて、これは明確な侮りではないか、と思うことがある。
 ふだん、誰かと会うためにすっぴんで出かけていくとき、わたしはこれから会う相手のことを信頼している。わたしはふつう多くの女性がするべきだとされているメイクをしていないけれども、わたしの友だちや仕事仲間たちはそんなことで相手を判断するような人たちではなかろう、と思っているのだ。
 それだけならなんとなくいい話のように収まるかもしれないけれど、めったにしないメイクをしているとき、このことがふと胸に引っかかる。ならばこのメイクは、侮りそのものではなかろうか。下地を塗り、口紅を引くことで、わたしは暗にこれから会う人たちを、見た目でしか人を判断できない、信頼のおけない相手とみなしているのではないか。つまり、一般的な考えとはまるきり逆で、メイクをしていないことが敬意の、していることが侮りの表現になってしまう。その奇妙な逆転が、わたしの弱い肌の上で起きるのだった。
 にこにこしてしまったときにも、ふと同じように思う。わたしはいま相手を、にこにこしてさえいれば気を許すような人間と、あるいはにこにこしていなければ気分を害するような人間と、みなしてしまってはいないだろうか。そして、そのような侮りを、子どものわたしも敏感に感じ取っていたのではないか。
 侮りはどこにでもありふれている。だからこそ、敬意に悩んでしまう。そして、やっぱりできるだけたくさんの人に、敬意を払えるようになりたい。

 わたしの持っている女性という肉体もまた、侮りのまなざしに晒されやすいものだ。女性というだけで、聞いてもいないことを教わる立場に立たされ、頼んでもいないのに守られる立場に立たされて、ときには許可なく触っていいものだとみなされさえする。メイクにどうしても気が乗らないのには、そこへの抵抗も混じっているかもしれない。
 ときどき、夫と、一緒にライブをしているギタリストの相方と、三人でドライブをする。車好きの相方が運転をしたがってくれるので、運転席はほとんど彼に任せる。ナビの操作のために夫が隣に座り、わたしは後部座席でだらだらする。
 相方は、陽気でやさしい。運転中もずっとふざけている。カーオーディオから流れてくる曲にいちいち合いの手を入れ、アクセルを踏んでは気持ちよさそうに快哉をあげる。わたしたちが笑うからなおさら調子づいて、道中でどんどんテンションが上がってくる。
 なかでもおもしろいのが、彼がやむなく急ブレーキをかけるときだ。「あっ、ごめん」と言ってブレーキを踏む瞬間、身体にかかる重力に耐えながらも、彼はすかさず助手席の夫の前に手を差し出す。ブレーキの反動で夫の身体が前に飛び出さないように支えてくれているのだ。しかし夫は相方よりもかなりがたいのいい男であり、その、アンバランスさがおかしい。「いや、やさしいな」と夫がいう。過剰な気づかい、それもいわゆる「男らしい」気づかいが、どこまでも空回りして、おふざけになってしまっている。戯画化されたマスキュリニティ。もしかしたらそれはふざけていない、彼の心からのやさしさなのかもしれないけれど、それならそれでなおさらおかしくて、わたしと夫はどうしても笑ってしまう。
 あるとき、夫が後部座席で眠りたいと言い出して、わたしと席を替わった。相方とふたり、夫の寝息を聞きながらおしゃべりしていると、目の前の信号が黄色になる。アクセルを踏み込んで渡ってしまうか急停止するかのギリギリのところ、彼はブレーキを踏み込んだ。身体に勢いよく重力がかかる。「あーごめんごめんごめん」と唱えながらそのまま停車して、ひと息ついてから、「すいません、行けたかもしれないけど」と、彼はもう一度謝った。
 「いやいや、安全運転じゃん」と答えてから、しばらくして、ゆっくりと感心が追いついてきた。この人、わたしの身体は、夫にするように支えてくれなかったな。おそらく、わたしが身体に触れられること、そして女性扱いされるのをいやがることを、長い付き合いでよくわかっていて。ふだん、あれだけすばやく夫のほうに手を伸ばすこの人が、焦って急ブレーキを踏みながら、わたしに侮りであると受け取られないほうを、とっさに選んでくれたんだな。
 それはわたしにとっては、この上ない敬意の表現であるように思われた。ここでもまた、逆転現象が起きている。身体を気づかって手を伸ばすことのほうがときに侮りであり、なにもしないでおくことが、わたしと彼との間ではまちがいなく敬意であったのだ。反対に、本来守られる立場に置かれることの少ない夫の身体にとっては、彼の伸ばす手がうれしいこともあっただろう。その複雑なふたつを、相方は見事に使い分けてみせたのだった。
 それもまた、ある種の区別である。けれど、ある人に敬意を示すためにほかのある人のことはないがしろにしておく、というような、冷たい区別ではない。それでいて、誰彼かまわず敬語で話すような、わたしの暴力的な一緒くたとも違う。ひとりずつを精緻に区別していくこと。それが、敬意のあるべき姿ではなかろうか。

 敬意:相手が、ほかの誰とも区別される、ただその人であるという気持ち。

 つまり、敬意とは、ひとりに対する気持ちでしかありえない。女性であることを理由に侮りのまなざしを向けられているとき、わたしはほかの女性たちと区別されていない。そして、わたしがメイクをして出かけるとき、わたしはこれから会うよく知らない人たちを、そのほかのよく知らない人たちと区別していない。そこに、今度は侮りの根幹がある。

 侮り:相手をある集団の一部とみなし、ただその人であると区別するには値しないという気持ち。

 さて、そうなるとひとつ困ったことがある。社会的な関係と敬意とは、やっぱり深くつながっているのではないか、ということだ。敬意がひとりに対する気持ちであるとしたら、いつでも、誰に対しても正しい敬意の払いかたというものはない。相手との関係に応じて、それはつねに変動し、ときに華麗に逆転してしまうからだ。そうであるなら結局、自分と相手とがどういう関係にあるか、相手が自分との関係をどのようにとらえているのかを、「わきまえて」おくことが必要になる。それは言い換えれば、自分のややこしい気持ちと、いつでもよくわからない相手の気持ち、その双方と、どうにか付き合いつづけていかないといけない、ということではないのか。
 たいへんなことになった。しかもそうだとしたら、頼みの綱だったはずの敬語の立場もあやしくなってしまう。こうなると、相方のカンのよさがねたましくなってくる。敬意にも才能があるとしたら、彼にはあって、おそらく、わたしにはない。これもまた敬意のひとつ、と、いえるだろうか。どうだろう。


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プロフィール
向坂くじら(さきさか・くじら)

詩人、国語教室ことぱ舎代表。Gt.クマガイユウヤとのユニット「Anti-Trench」で朗読を担当。著書『夫婦間における愛の適温』(百万年書房)、詩集『とても小さな理解のための』(しろねこ社)。一九九四年生まれ、埼玉県在住。

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