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関係につける名前なんて問題にならないぐらいの、あなたなのだ。――「ことぱの観察 #15〔友だち(訂正)〕」向坂くじら

詩人として、国語専門塾の代表として、数々の活動で注目をあびる向坂くじらさん。この連載では、自身の考える言葉の定義を「ことぱ」と名付け、さまざまな「ことぱ」を観察していきます。


友だち(訂正)

 三十になろうかという秋の夜、「お友達になりたいです」と言われた。この、もっぱら人づきあいが苦手で、友だちの少ない、そして「友だち」という語のうまく使えない、わたしが。そうメッセージをくれたのは同年代の女性で、その日の昼間にはじめて仕事で会ったばかりの相手だった。
 わたしはびっくりして、なんと返事をするべきか迷った。あわててはいたけれど、オッケーしたいと思っていた。その、ていねいなわりにみょうにストレートな申し出がおもしろかったこともあったし、なによりわたしもその人の話しぶりや作るものに惹かれていた。友だちになること自体に迷う理由はなかった。
 しかしメッセージを返そうとした指先を、同時に心のうちでなにかが押しとどめる。すなわち、何様。向こうから申し込んでもらったとはいえ、オッケーするとかしないとか、そんなことをしていいものだろうか。「はい、いいですよ、友だちになりましょう」なんて言ってしまうのは、なにか抵抗がある。あんまりへりくだるのもおかしいし、かといって、「いやいや、そんなかしこまらなくてもいいですよ(笑)」みたくフランクに返すのもしらじらしい。
 「申し込まれて、オッケーを出す」ことに気後れを感じるとき、なにより怖いのはそのアンバランスさだ。明言されない上下関係のようなものが、そこにうっすらとでもあらわれてしまいそうなのが怖い。もちろん完ぺきに対等な関係などないとしても、少なくともそれをよしとしていることは伝えておきたい。そしてフランクな返事をすることもまた、「ていねいに申し込んでもらったことに対して、こちらはフランクに返せる」というようなかたちで、かえってわたしの優位を示してしまうような言動に思える。だから、いやだった。ていねいに言ってもらったことには、やはりていねいに。それでいて、「友だちになりたい」という内容自体は、やわらかに受け入れるかたちで……しかしまあ、こういうややこしいことばかり言っているから、友だちの経験が希薄なまま三十近くになってしまったのかもしれない。
 それで最終的には、「よければまずお友だち(LINE)になりませんか……」というくだらないメッセージとともに連絡先を送った。メッセージアプリのLINEは、連絡先を交換した相手をなべて「友だち」と総称してしまう、その乱雑さがいつになくありがたい。するとすぐにメッセージが来て、わたしと彼女とはさしあたって友だち(LINE)になることに成功した。けれどさて、わたしたちはこれで「友だち」になったのだろうか?

 ちょうどそのときわたしはこの連載をはじめたところで、第一回「友だち」の原稿を書き上げたばかりだった。そこでは、こんなふうに「友だち」を定義している。

友だち:互いに親しみを抱いている関係の名前。ひるがえって、自分が相手に対して抱いている親しみを、相手もまた自分に対して抱いていてほしい、という願いをこめた呼びかけ。

 その人がわたしにしてくれた申し出は、まさにこのような「呼びかけ」だった。それも、日常おこなわれるものよりも、かなりわかりやすいかたちの。だからこそ、誰かを一方的に「友だち」と呼ぶことをついおそれてしまうわたしのようなものでも、申し出を受け入れるという手順をすんなり踏めたのだ。
 けれども当然のこと、それからわたしたちには、「呼びかけ」のあとが訪れた。
 LINEのやりとりはしばらく続いた。おずおずとあいさつをし、仕事で会ったときにしきれなかった話をすくいとるようなこと、お互いの日常のこと、それから、「友だち」という事象そのものについて話した。けれど、わたしたちはこれで「友だち」になったのだろうか。そのうちはじめてふたりでカフェに行き、何時間も話をした。いくら話しても、話題は尽きなかった。お互い苗字で呼んでいたところを「友だち」らしい呼び名に変え、敬語をやめるという取り決めもした。彼女からもらっていたプレゼントのお返しを渡して、ふたりぱちぱちとはにかんだ。けれど本当に、わたしたちは「友だち」になったのだろうか。
 仲良くなっていくあいだ、ふたりとも、申し出をしてくれた彼女のほうさえ、大人になって突然できた新しい友だちの存在にずっとびっくりしつづけていたと思う。彼女もまた、友だちが多いほうではないらしい。ふたりしてずっとどこか身がまえつづけていたし、さらにはそのことをお互いに明らかにしていた。「友だちになるって、どうやったらいいんでしょうね」といたずらっぽく言いあいながら、LINEを交換し、プレゼントを交換し、あだ名を決めて、お茶をする。プレゼントのついで、ひとつ、ふたつの小さな秘密も、お互いに渡しあった。
 わたしたちの仲良くなりかたは「友だち」のチェックリストを埋めていくみたいだったし、そのことを自分たちで外がわから指差して笑ってもいた。わたしたちは、「友だち」の渦中にいる当事者でありながら、自分たちの身に起こった「友だち」というめずらしい現象の観測仲間でもあった。「友だち」のメタフィクション的な楽しみ、つまりわたしたちの関係はそもそも、いくらかフィクション的だった。するとやればやるほど、「友だち」とはなんなのかがよくわからなくなってくる。
 そのときわたしは、「『友だち』になれてうれしい!」とわざわざカッコつきで言いあうときも、「友だちって、これでいいんだっけ?」みたいにとぼけるときも、同時にずっと「友だちになりたい」と思っていた。これは明らかにおかしい。ごはんを食べている途中に「ごはんを食べたい」と言ったり、なんらかのチャンピオンになったあとに「チャンピオンになりたい」と言ったりするようにおかしい、しかし心からそう思っていた。「友だちでいつづけたい」ならまだわかる。けれどそれともまた違う、「なりたい」はあくまで「なりたい」だった。わたしがしたいのは現状の維持ではない。いまとは異なるものになりたいのだ。
 そして、これは勝手な想像かもしれないけれど、彼女のほうでも同じように感じてくれているような気がした。少なくとも、彼女からは自分と似た不器用さを感じる。アプリの表示上の「友だち」になった、それから実際にプライベートで会った、しかしふたりともなんとかさらに自分の「ラブ」を示そうとしてしまう。いつからかわたしたちは、お互いに対する親愛の情をおおむね「ラブ」と通称しているのだ。迷走の結果、ちょっとやりすぎているかもしれない。それでいてふっと「友だちとは……」と醒めてみせる。お互いに共通認識を持った「友だち」でありながら、ふたりとも「友だち」のことがよくわかっていない。そして、それぞれで「友だちになりたい」と望んでいる。いつまでもずっと、雲をつかむように「友だち」になろうとしている。
 わたしたちは本当に「友だち」になったのだろうか?

 そのふしぎな関係に慣れてきたころ、この連載の第一回が公開された。友だちとはすなわち、呼びかけであると書いてある。これにはあきれた。まるで実体を伴っていない、机上の空論にもほどがある。なんせいまいるここは、その「呼びかけ」のあとの、名前を持たない空洞なのだ。しかしそれでいて、確かに「友だち」の問題はありつづけている。すなわち、「呼びかけ」られたそのあとで、わたしたちはどんなふうに「友だち」になるのか。それがわからない。「呼びかけ」のことを話しただけでは、実際の関係である「友だち」についてはほとんど話していないに等しい、つまり、わたしの定義はまだ、「友だち」に足りない。わたしが彼女と知り合う前にした定義には、生きている他者とむすぶ関係の有機的な手ざわりが、すっぽり抜け落ちていたのだった。
 それなら、呼びかけのあとにある「友だち」とはなんだろう。決まったかたちのない、何人作ってもかまわない、けれど誰でもいいわけではない、そして、三十を手前にして恵雨のように目の前にあらわれた、この「友だち」というものは、一体なんだろう。

 思い返してみれば、これまでにできた「友だち」たちとは、これほど意識的に仲良くなろうとしたことはない。つねに、なんとなく仲良くなったよね、というようなテイを保っている。わたしはいつもどこか受け身で、逃げ腰だった。わたしたち、たまたま仲良くなって、たまたま一緒にいるだけだよね。だから、いつこの関係が終わっても、別に大丈夫だよね。ね? 実際には必ずしもそうではないのだが、そういうテイでいるほうが都合がいい。のちのちなにがあっても無傷でいられる、そうでなければ。なんたって、他人の心にはいつなにが起きるのかわからないのだ。わたしのような、すぐに考えすぎる、そのくせところどころでへんに鈍感なものにとっては、なおさら。
 勝手に「友だち」と呼んでしまうことをおそれるわたしの慎重さはそのまま、いざ友だちづきあいに移ったとたん、いつそれが終わっても大丈夫でいられるための準備をはじめるのだった。関係が途切れてしまうのは怖い。相手が大切な、かけがえのない存在であるほどに。さらに反転すると今度は、大切になるのは怖い、が訪れる。これが「恋人」ならば、友だちよりはいくらかましだ。程度の差こそあれ、そこに約束のある感じがするからだろう。恋人ならいつ恋人になったかもはっきりわかるし、終わるときにはある程度説得力のある理由も求められる。まず相手を大切に思うこと自体も、約束のなかに織り込まれ、許されているようにも思える。けれど「友だち」はやっぱりせいぜい呼びかけで、約束には決してなれない。だから、いきなり終わらせられてしまうこともありえる。事実これまで、たびたび我が身にありえてきたのだ。

 けれど、「友だち」の居心地悪さの理由はほかのところにもある。
 結婚してしばらくすると、自分の暮らしている家に夫が帰ってくることにも、同じ食卓で食事をすることにも慣れた。われわれ夫婦は同棲を挟まずにいきなり結婚したから、はじめはひとつひとつがうらうらとおもしろかったものだった。けれどややもすると忙しさにかまけて、目新しさを見逃すことが増えてくる。結婚する以前が過去として遠ざかってゆくにつれ、つぎには未来のほうが気にかかってくる。これまでと比べたときにはめずらしくておもしろかったことも、これからと比べてしまえばありふれた、連続の一部分にすぎないように思えてくるのだった。
 それが自分で不気味になって、ある日夫にこう提案した。
 「ねえ、他人の次が恋人でしょう、恋人の次が夫婦でしょう、そのまた次があったほうが気がゆるまなくていいよねえ。結婚よりもすごい感じの、なにがいいかねえ、“神獣”だとか……」
 すると夫は間髪を容れず「し、しんじゅう……!?」とすごい顔をして、それはわたしの名案におののいているのではなく、単に「心中」と聞きまちがえているのだった。そんな。ただちに訂正したものの時すでに遅く、夫は不穏な面持ちになり、わたしのほうも夫に「心中」を聞きとらせるほどの自らの素行の悪さを省みてしおれ、提案はなあなあに過ぎ去ってしまった。けれど、いまでも思っている。まだあと何十年もある予定なのに「夫婦」で終わりというのは、締まりがない。そしてなにより、不安である。
 そうして、はじめてわかった。「友だち」に比べて「恋人」が不安でなかったのは、単に約束に欠けていたからというだけではない。そこが通過地点にすぎないと思っていたからだ。夫婦やパートナーとして家族になるとしても、そうならずに別れるとしても、ともかくいつまでも「恋人」というだけではいられない、そういう宙吊りの気持ちが、かえってわたしを安心させていたのだった。けれど「夫婦」になってしまうとそうはいかない。ここはすでに名前のついた関係としてはゴールで、ここから先はただこれを継続していくことのほかにないのだ、という重みが、しんしんと迫ってくる。
 「友だち」にしてもそうだ。夫婦よりもずっと気軽に「友だち」になるやいなや、しかしすぐに最終地点に立たされる。わたしと彼女もまた、すでにその地点に立っている。ふざけてメタフィクションごっこをしていたとしてもだ。そうして、その先でできることは唯一、継続だけである。きっと、そのとくに目指すところのない感じが、どうにもわたしたちを困らせたのだろう。それでなんとなくチェックリストを埋めてはみたものの、それがすなわち友だちの要件とはならないことも、お互いひそかによくわかってしまう。結局、不器用なふたりなのだ。できることは端からやりたいと思ったものの、実際のところいますぐ取りかかれることは数えるほどしかなく、あとはただそこにいるとか、ときが経つのを待つとか、そんなことしか残っていないのだった。
 とても当たり前なことを、あえて取り立てて言ってみよう。わたしたちはひとたび友だちになってしまえば、いつか友だちでなくなるか、さもなければいつまでも友だちでいるほかない。そしておかしなことに、その、どちらもが不安である。小学生のころなんかによく「親友」と言ってうれしがったのは、きっとこの不安をごまかすためだったにちがいない。しかし大人になってしまったいまでは、その呼び分けがたいした意味を持たないこともわかっている。もちろん、ときには友だちから夫婦になったり、家族になったり、師弟になったりすることもあるものかもしれないけれど、少なくともわたしたちの関係はいまのところ、それを想定していない(と思う)。
 つまりきっと、友だちであるとは友だちでいつづけること、少なくともそれを予期することである。友だちとはある地点ではなく、道の全体を呼ぶ名前なのだ。けれども道を行くあいだにはみんな、なにかを見たり、拾ったり、反対になにか落としたりしてしまうものだから、変わらずに誰かと友だちでいつづけるのはなかなかむずかしい。けれども、わたしたちは友だちになろうとする。友だちになったあとにもまだ、やっぱり友だちになりたい。

友だち(訂正):
関係をつづけることを約束しなくても、互いにわけもなく親しく思いつづけられる相手のこと。そして、これからそのような状態を継続したいという願いをこめた呼びかけ。

 「友だちになりたい」とはつまり、「友だちになりつづけたい」ということでしかありえない。だからやっぱり、わたしは死んだ友だちにも呼びかけつづけるだろうし、その返事を聞きとることはできないとしても、待っていることはできる。わたしと彼女の呼びかけも、「友だち」になったあとでも、これから何度も起こるだろう。
 さらに本当のところで言えば、友だち、と呼ぶだけでは足りない、関係につける名前なんて問題にならないぐらいの、あなたなのだ。継続とはつまり血の通った実体のことで、その目まぐるしさの前では、決まった名前をつけることなんて本当はどうでもいい。けれどそれでいて、わたしたちが「友だち」であるというそのことが、変わらずにはいられないわたしたちが継続をおこなうための、かすかな道しるべになってくれる。ときに喪失をおそれ、ときにそのために大切になることをおそれながら、わたしたちはゆくのだ。そのためにこそ、わたしたちは半分無理やり、ときにくすくすと斜に構えながらも、「友だち」と呼びあっているような気がしてならない。

 さて、わたしたちはいつ、本当に「友だち」になるのだろうか。彼女とはそれからもやりとりをし、ときどきお茶をすると半日ほども話し込み、次に会う約束もしている。すでになっているとも思うし、まだなれていないとも思う。ただ、彼女と友だちになりたいと思うたびに心のどこかが怖がろうとするのを、わたしはひそかにおしとどめている。もう、逃げ腰はやめる。彼女だって友だちを作るのには慣れていないというのに、あんなに大胆にわたしの「友だち」に名乗り出てくれたのだ。わたしももう言い逃れはできない。わたしたちはたまたま仲良くなったわけではない、お互いにわざわざ選んで友だちになったのだ。
 だから大切になることをこわがらないでいたい、けれどそれは失うことを怖がらないという意味ではない。反対に、きちんと怖がりたい。失うこと、そして傷つくことを、涼しい顔で予防してしまわずに。わたしたちはどうしようもなく変わっていくし、他人の心に起きていることはやっぱりわからないままだ。どれほど大切に思ったとしても、わたしと彼女はいつ終わってもおかしくない。けれどいまならようやく、その痛みを呑みこむ構えができそうな気がする。
 そして、もしもその覚悟ができたなら、そうしてなお彼女と友だちでいつづけられたのならそのときにやっと、わたしは彼女と友だちになったと言ってみたい。胸を張って、フィクションでもメタフィクションでもない、生きているこの自分として。


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プロフィール
向坂くじら(さきさか・くじら)

詩人、国語教室ことぱ舎代表。Gt.クマガイユウヤとのユニット「Anti-Trench」で朗読を担当。著書『夫婦間における愛の適温』(百万年書房)、詩集『とても小さな理解のための』(しろねこ社)。一九九四年生まれ、埼玉県在住。

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