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中野京子「異形のものたち――絵画のなかの怪を読む 《人間以外のものとの合体(1)》」

 生ぬるい日常を揺さぶり、鈍麻した意識を覚醒させ、それまで気づかなかった新たな美、新たな視点を知らしめることも芸術表現の一つだ。そのため創り手は固有の鋭い感覚で、奇異、異様、異類、異体の中に人間の本質を見出し、且つ、それを巧みに描写して受け手に突きつける。
 文学であれば人の心の歪みや衝撃的事件(ギリシャ悲劇、ドストエフスキー作品etc.)、音楽であれば神経を逆撫でし、心を不穏にする音の連なり(モーツァルトの夜の女王の絶唱、ベートーヴェン『第五』の冒頭etc.)、演劇なら観客をいきなり舞台の地平へ引きこむ手法(ブレヒトの異化効果etc.)がそれだ。
 また画家や彫刻家だと――視覚芸術なので当然のことながら――尋常ならざる形態に魅入られ、「異形のもの」を描くことになる。人獣、モンスター、天使、悪魔、妖精、異様な建造物……そこには「描きたい」という意志をも凌ぐ「見たい」という大きな需要があることも確かだ。我々人間が強烈な好奇心に支えられた生きものであるかぎり、その試みは終わることがない。
 画家のイマジネーションの飛翔から生まれ、鑑賞者に長く熱く支持されてきた、名画の中のさまざまな「異形のものたち」を見てゆこう。

海への恐怖と人魚

 海は恐るべき異界である。水中というその領域に、生身の人間は生きられない。
 ではどうして世界各地に、人間の上半身と魚の下半身の合体たる人魚についての伝承がこれほど多いのだろう?
 いくつか説がある。たとえば、「どんな生きものもそれに対応するものが異界に棲む」という古代人の考えが連綿と受け継がれ、地上の人間と対応する海の生きものとして人魚の存在が信じられてきた。あるいは、海にいる神(ないし人間ならざるもの)への信仰をもつ世界各地の海洋民族が、古来さまざまに想像をめぐらせてきたのが人魚だ、と。
 いや、人魚は想像の産物ではない、実在している、との主張もある。かのコロンブスも、航海中に三体の人魚が海面から高く飛びはねるのを見た、人間の顔はしていたが、残念ながら絵に描かれていたほど美しくはなかったと言った由。
 この点に関しては、海牛(ジュゴン、マナティ)説が有力視されている。嵐の夜、恐怖に怯えた船乗りが遠くにジュゴンかマナティを見、人魚と思いこんだというもの。海牛は海棲哺乳動物なので胸びれの脇に乳頭があり、遠目には若い女性の姿に見えたのだろう、と。
 いずれにせよ西洋人の考える一般的な女性人魚(マーメイドmermaid)のイメージは、緑色ないし金色の長い髪をもつ美女で、その歌声には魔力がある。他方、男性人魚(マーマンMerman)は存在感が薄い。呼び名すらあまり知られていないのではないか。だが呼び名があるなら男もいるわけで、男女がいるなら子供もいるだろう。
 そうした次第で、アルノルト・ベックリンが「人魚の戯れ」で描くのは、老若男女の人魚たち。「死の島」で遅ればせながら人気画家の仲間入りしたベックリンが、その勢いをかって、もともと好きだった人魚をテーマに何点も制作した中の一点。絵筆はのびのびと大胆だ。

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(ベックリン「人魚の戯れ」、1886年、バーゼル美術館蔵) 

 真っ黒な岩礁に白い波しぶきが盛大に砕ける。海は大荒れなのに奇妙に碧く澄み、視界も良好だ。人魚が現れるとされる満月の夜なのだろう。皆の笑いがはじける。
 まず目がゆくのは、岩の上から大きくダイビング中のマーメイド。輝く金髪。乳房はまだ固い。人体と魚体の境い目にある小さなヒレがリボン飾りのようだ。その真下にいる幼児人魚は、彼女のエビ反りジャンプを見上げて驚いているのか、それとも岩のすべり台が思いのほかスピードが出て悲鳴を上げているだけか。左手につかんだ小魚は餌だろう。共喰いの気配……。
 幼いこの人魚のすぐ左には、成熟した肉体をもつマーメイドが、頭の先と伸ばした両腕だけを水中に沈め、血走った片目でこちらを見つめてくる。溺死者をよそおい、近づいた我々鑑賞者にニヤリと笑いかけた、といった態だ。その赤い唇、見開いた目の狂気じみた光に気づいた刹那、この絵の曰く言いがたい薄気味悪さの正体に触れた気がする。
 そう、薄気味悪いのだ。
 最初の一瞥では人魚の群れが笑いさざめく陽気なシーンにすぎないが、よく見ればベックリンらしい悪趣味ぎりぎりのショッカーな描写が他にも嵌め込まれている。画面右の中景には、ブイか何かが浮いているかに思わせて、水中から頭を半分出したマーマンがいる。大きなギョロ目で岩上のマーメイドを凝視中だ。また画面中央下でひとかたまりになった中年風のマーメイドらの笑い顔にはロマンも美もなく、そばにいる皺だらけの老マーマンも加わって、場末の下品でどきついキャバレーの雰囲気すら醸しだされる。彼らは半身こそ人間の姿だが、あくまで異界の住人なのだ。人間なら溺れ死ぬような沖合いの荒海を遊び場にし、人間を脅す。
 だがこうした危険で忌まわしいベックリンの人魚観は少数派で、他の多くの画家が表現してきたのは、人間の男を誘惑し破滅させる人魚の、妖しい性的魅力の方だった。
 その代表格は、ハーバート・ジェイムズ・ドレイパー「オデュッセウスとセイレーン」(2017年開催の「怖い絵展」に出品されたので、覚えている人も多いのではないだろうか)。

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(ハーバート・ジェイムズ・ドレイパー「オデュッセウスとセイレーン」、1909年、リーズ美術館蔵)

 サイレンの語源セイレーンは神話に登場する海の魔女で、人魚の仲間。三人ないし七人の姉妹とされる。彼女らは、海の岩礁や海峡など航路の難所に棲息し、不思議な歌声で船乗りを惑乱させて船を沈めると言われた。
 本作はギリシャの英雄オデュッセウス(=ユリシーズ)が、トロイア戦争からの帰途セイレーンに襲われた緊迫のシーン。船を漕ぐ部下たちは耳栓をつけているが、どうしてもセイレーンの歌声を聴きたいオデュッセウスは自らをマストに縛りつけてもらう。だが聞くうち狂乱して縄をはずそうと暴れだし、部下の一人があわててきつく縛り直している。
 ドレイパーはセイレーンの描写に工夫をこらした。海中では魚だった下半身が、船に乗りこもうとするや人間の脚へと変じて腰には海藻が巻きつき、完全に乗船した後は腰布になる。
 美しい顔、美しい姿態、美しい声。あまりに魅惑的なので、目をそらすには大変な努力がいる。必死にオールを動かす男たちのこわばった顔。ここで美に溺れれば、実際にも溺れて死ぬであろう。恐怖が画面からあふれ出す。

女面鳥身

 セイレーンは最初から人魚の姿だったわけではない。かつては顔と胸が女、それ以外は猛禽類という、さらなる異形で描かれていた。時代が下るにつれて鳥女が人魚へと変遷したわけだが、どちらも美貌と胸と声で誘惑するにはしても、十全には男性の性欲を満たすことができない点では同じだ(だからこそ狂おしいまでの煩悶を惹き起こすのか……)。
 ドレイパーの同時代人ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスが、この時代としては珍しい鳥人間としてのセイレーンを描いている。しかも顔だけが女、あとは着ぐるみのごとき猛禽類なので、いわば女面鳥身。奇怪さが増す。

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(ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス「ユリシーズとセイレーン」、1891年、ヴィクトリア国立美術館蔵)

 セイレーン七姉妹が獲物を見つけて飛んできたところだ。マストに縛られたオデュッセウスだけ耳を隠していないのを知り、集中的に彼を狙う。だが画面中央下、尾羽の白い模様をくっきり見せたセイレーンは、漕ぎ手の弱点を見つけたのか、触れそうなほど接近し、小首をかしげ、歌をうたい続ける。相手はもはや目をそらすことさえできない。
 周りは屹立する険しい崖。入りくんだその合間の細い海峡。これまでどれほど多くの船を呑み込んできたことだろう。座礁や難破の危険に神経を尖らせる船乗りたちの耳に、千変万化しながら渦巻く風は時に耳をつんざくサイレン(警鐘)のように、時に不吉な鳥の声のように、またこの世のものとも思えぬ美しい歌声のように響き、ついには鳥と女の合体した異形の創造物を産んだのだ。
 もう一種、有名な鳥女がいる。ハルピュイア(=ハーピー)だ。語源は「掠める者」。
 食欲のかたまりで、食べ物と見れば何でも掠めとって喰いちらしたあげく、汚物を残して去ってゆく不潔で忌まわしい怪鳥だ。当然ながら顔は美しくはなく、醜悪な老婆のごとき容貌に、禿鷹の翼と鷲の爪をもつ。
 ハルピュイアは神話ばかりか、ダンテ・アリギエリ作『神曲 地獄篇』の第十三歌にも登場する。ここは地獄第七圏にあたり、自殺者が罰を受ける森の中だ(キリスト教において自殺は「神に授けられた肉体の否定」という大罪にあたる)。ダンテとその案内者ウェルギリウスが森に足を踏みいれると、瘤だらけの捻じれた木々はどれもかつては人間だった亡者たちで、今やハルピュイアに葉や枝をついばまれ、苦悶の叫び声を上げているのだった。
 フランスの版画・挿絵画家ギュスターヴ・ドレがその地獄を描いている(画面中央後景にいるのは、森へ近づいてくるダンテとウェルギリウス)。彩色されていないので、樹木に変えられた元人間たちがどこに隠れているか見つけにくく、探しあてる楽しみもある(顔が幹へと溶解した者も含め、六人)。

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 ハルピュイアたちはいずれも鷲鼻で頬骨が出て頬がこけ、眼光鋭く、疑り深い老いた陰険な顔つき。その一方で胸は若々しく、アンバランス。むさぼっても、むさぼっても、なおまだ飢えがおさまらない悪徳の怪物としての呪われた姿だ。
 そしてそこからハルピュイアは、「己の贅沢への欲求をおさえられず、貧民の食べ物まで掠めとる王妃マリー・アントワネット」というイメージに重ねあわされることとなる。

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(作者不詳「ハルピュイア」、カルナヴァレ美術館蔵)

 本作はフランス革命の足音と呼応して出まわった夥しい数の諷刺画の一点で、反王党派が「アントワネット=ハルピュイア」という固定観念を大衆に植えつけ、異国の王妃に対して憎悪をかきたてるためのプロパガンダ作品だ。
 怪鳥が口にくわえているのは好物のウナギ(ヨーロッパでもウナギは昔からワイン煮などで食されてきた)、同時にまたその形からプチ・トリアノン(アントワネット専用の離宮)の鍵もあらわす。翼は飛竜、ひいては悪魔を連想させ、二股に分かれた尾羽は蛇のようだ。これでもかとばかり負の要素を加えた視覚情報は世に浸透しやすく、反王党派のイメージ戦略が成功したことは歴史も証明している。
 そしてこの戦略は今なおどの世界でもどちらの陣営でも使われ続けており、安易にそこに乗らぬようにするには正確な知識を得る不断の努力が必要ということだ。

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プロフィール

中野京子
作家、独文学者。著書に『「怖い絵」で人間を読む』『印象派で「近代」を読む』『「絶筆」で人間を読む』『美術品でたどる マリー・アントワネットの生涯』、「怖い絵」シリーズ、「名画の謎」シリーズ、『ヴァレンヌ逃亡』、『名画で読み解く ロマノフ家12の物語』『(同)ハプスブルク家12の物語』『(同)ブルボン王朝12の物語』、最新刊に『画家とモデル――宿命の出会い』など多数。2017年に特別監修を務めた「怖い絵」展は、全国で約68万人を動員した。 ※著者ブログ「花つむひとの部屋」はこちら

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