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大衆社会から、新・階級社会へ――「マイナーノートで」#24〔百貨店の終焉〕上野千鶴子

各方面で活躍する社会学者の上野千鶴子さんが、「考えたこと」だけでなく、「感じたこと」も綴る連載随筆。精緻な言葉選びと襞のある心象が織りなす文章は、あなたの内面を静かに波立たせます。
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百貨店の終焉

 今年の1月31日にふたつの百貨店が閉店した。ひとつは東京渋谷のシンボルだった東急百貨店渋谷・本店、もうひとつは北海道は帯広にある道内資本最後の百貨店、藤丸が創業122年の歴史を閉じた。百貨店の研究をしてきたわたしには感慨がある。

 百貨店の凋落はそれ以前から始まっていた。駅前巨艦主義で有名だったそごうが西武と合併した。後発百貨店の雄であっというまに全国展開した西武百貨店も、バブル崩壊後、経営母体であるセゾングループが破綻し、それからの撤退は早かった。百貨店の統廃合が始まり、衰退過程にあった老舗の三越が伊勢丹と合併した。百貨店は「七十貨店」や「五十貨店」になり、またたんなるテナントビル化していった。

 百貨店は都市が都市であるためのシンボルのようなものだったのだけれど、それが次第に消え失せつつある。いまは都市が都市であるための条件は、スタバがあることだろうか。ときどき、「うちの町にもスタバがほしい」という声を地方の人から聞く。

 高度成長期に育った団塊世代のわたしたちにとっては、百貨店はあこがれの場所だった。家族連れで百貨店に行くのは、テーマパークに行くようなものだったし、屋上にはだいたい遊園地があった。百貨店の食堂は鰻丼からお子さまランチまで、家族それぞれの嗜好に応じるメニューがそろっていたから、世代の違う者たちが同じテーブルを囲むことができた。いまのファミレスみたいなものだけれど、それよりも特別感があった。

 三越や大丸などの老舗百貨店の前身は、江戸時代の呉服屋、それが「げんきんけ値無し」という大衆化路線にシフトして生まれた。三越には「300年史」がある。明治時代の百貨店は西洋文物の展示場だった。そういえば大正生まれのわたしの父は、口癖のように「舶来上等」と言っていた。上等の品は西洋から、日本製の製品はチープでこわれやすいと思われていた時代のことだ。敗戦後日本は輸出産業で復興を果たしたが、made in Japanとはチープな品物の代名詞だった。隔世の感がある。

 団塊世代にとっては、私鉄沿線の住民を引き寄せた鉄道系資本による新興百貨店がハレの場だった。関東では東急、小田急と西武鉄道、関西では阪急と阪神。西武百貨店池袋店(当時)が団塊世代のニューファミリーを対象に1975年に大規模リニューアルを果たしたときのキャッチコピーが「手を伸ばすと、そこに新しい僕たちがいた。」というもの。そこには日本人の男性、外国人の女性を両親とする性別不詳の幼児の三人家族が写っていた。ここではないそこ、いまではないいつか、そして日常ではない非日常。それでも手が届く距離にある都会の核家族の日常だった。

 ほとんどが地方出身者だった団塊世代は都会の大学に進学してそこで家族を形成し、しゅうとしゅうとめのいない友達夫婦をつくった、はずだった。そのニューファミリーが、「男は仕事・女は家庭」の性別コースにがっちりはめこまれた昭和型ファミリーであるとは誰も予想もしなかったに違いない。いかなる皮肉か、性別役割分担に異議申し立てをしたはずのこの世代のコホート(同年齢集団)の専業主婦率は、戦後最高だった。寿退社があたりまえで、子どもを預けようにも保育所はほとんどなかった。それ以前に子持ちの女の働く場など、ないも同然だった。

 わたしは西武百貨店の黄金期に、セゾングループ25年史の執筆を依頼されて、取材に入った。時はバブル期のまっさいちゅう、高いものから順番に売れるというほど国中が浮かれていた時期である。西武は拡大路線を歩んでおり、札幌、塚口、大津、八尾など地方支店の出店があいついだ。西武は前衛的な演劇や絵画などのとんがった文化事業でも知られており、当時は都内の大学生が「入りたい会社」のトップに挙げるほどの人気があった。採用面接で「キミは何がしたいの?」と聞かれて胸を張って「文化事業です」と答える応募者に、面接官が辟易するという話を聞かされた。文化事業はカネが出ていくだけの事業、その前に稼がなければ文化事業に回すおカネもない、それを勘違いしてくれるな、というもっともな言い分だった。

 そのセゾングループ史全6巻のうち『セゾンの発想』(リブロポート、1991年)にわたしが書いた論文のタイトルは「イメージの市場――大衆社会の『神殿』とその危機」というもの。バブルのさなかにすでに「危機」の予感があったのだろう。事実、刊行した91年にはバブルがはじけ、日本の景気は急速に冷えこんだ。

 百貨店は私的空間なのに、誰も拒まず、誰でも入れる。誰もが潜在的なお客さまとして丁寧に扱われる。一物一価の法則で、誰に対しても同じ定価で商品を提供する。一物一価の法則は、世界の常識ではない。わたしの友人がアラブの貿易商を日本の百貨店に案内したとき、たばこをカートンで買って値切り交渉の通訳を要求されたと愚痴った。何でもまとめて買えば安くなる、というのがそのアラブ商人の言い分だった。そりゃそうだ。世界の各地では値段は相手によって変わる。ヨーロッパから中近東、アジアを通って長い旅をしてきたわたしのアメリカ人の友人は、日本に来たらものの値段を交渉しなくてすんで、こんなラクなことはない、ほっとしたと言った。日本だって前近代社会では値段は交渉次第。それが「現銀掛け値無し」になったのは、すべてのお客さまを平等に扱います、という大衆社会の幕開けへの画期的な宣言だった。

 そこにいれば誰もが「お客さま」として平等に扱われる特別な空間に、ひとびとはハレ着で行った。百貨店の包装紙は特別な意味を持っていたから、進物や贈答品は、同じ品でも百貨店から送るものだった。

 大都市圏が郊外に拡がっていき、郊外ショッピングセンターが登場したあたりから変化が起きた。モータリゼーションが進行して、鉄道ではなくクルマが移動手段になっていた。滋賀県大津市に開店した西武大津店の顧客調査をしたときに気がついたことがある。滋賀県は一家に家族の人数だけクルマがあると言われるクルマ社会である。クルマは下駄同然の移動の手段、なくては暮らせない。大規模な駐車場をそなえた百貨店にクルマから降り立つ家族連れの足元がサンダルに変わっていた。彼らはもはや革靴を履いて百貨店にやってきたりしない。百貨店は非日常ではなくなっていた。西武大津店の文化催事にJRに乗って京都、大阪から、さらには神戸からはるばるやってくる顧客の追跡調査をしたところ、彼らは売り場には目もくれず、イベント会場へ直行・直帰した。西武の文化催事は、販促事業にもなっていなかったのである。

 それと同時に階層分解が起きていた。大衆が小衆になり分衆になり、そのうちはっきり階層消費の傾向が生まれた。つまり金持ちは高いものを買い、貧乏人は買い控えをするというわかりやすい動向である。コロナ禍のもとでも、富裕層の消費意欲は落ちていないと聞く。

 明治から令和まで、あいだに20世紀の百年間を経て、大衆社会はふたたび階層社会に変貌したように見える。いや、これは「新・階級社会」だと言う人もいる。大衆社会が終わればそれに対応して登場した百貨店も、歴史的使命を終える。いま、ひとびとは購買力に応じて異なるセグメントの商品を買う。ミシュランの星付きレストランへ行く人と、𠮷野家へ牛丼を食べに行く人が交わることはめったにない。身分制の社会とは、ひとびとが集団に分割されて交わらない社会のことである。誰もが平等に行き交った百貨店の空間は、もはや過去のものになったのだろうか。百貨店の閉店は、大衆社会への晩鐘に聞こえる。

(タイトルビジュアル撮影・筆者)

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プロフィール
上野千鶴子(うえの・ちづこ)

1948年、富山県生まれ。社会学者。認定NPO法人ウィメンズアクションネットワーク(WAN)理事長、東京大学名誉教授。女性学、ジェンダー研究のパイオニアであり、現在は高齢者の介護とケアの問題についても研究している。主な著書に『家父長制と資本制』(岩波現代文庫)、『スカートの下の劇場』(河出文庫)、『おひとりさまの老後』(文春文庫)、『ひとりの午後に』(NHK出版/文春文庫)、『女の子はどう生きるか 教えて、上野先生!』(岩波ジュニア新書)、『在宅ひとり死のススメ』(文春新書)などがある。

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