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日比谷の書店員のリアルな日常、街の情景、本の話――〔千穐楽と送別会〕 新井見枝香

※当記事はエッセイ連載「日比谷で本を売っている。」の第21回です。第1回から読む方はこちらです。

 久しぶりに神保町へやって来た。有楽町で書店員になって、いつかは働いてみたいと憧れた本の街である。今の書店に転職を決める時、私は三省堂書店の神保町本店で働いていたのだ。辞表を出す前に、何度も自分に確認したことがある。
「それって今の職場から逃げ出す口実ではないよね?」
 長年、同じ会社に勤めていると、何人もの退職を見届ける。理由は様々だったが、本当のところは本人にしかわからない。会社側が納得できる理由を拵えただけで、本人にさえよくわかっていないことだってあるだろう。だが少なくとも私は、心のどこかに曇りがあるまま転職するのは嫌だった。直感を信じて深く考えないのと、都合が悪いことを考えないようにするのとでは大違いだ。
「新しい職場で、もっといろんなことに挑戦してみたいんだ」
 その気持ちは本当で、だから私は笑顔で日比谷にやってきた。それでも辞めて以来、神保町を避けていた。お気に入りの喫茶店もカレー屋もある。本だらけのあの街を歩きたいなあと思いつつも、行けずにいた。
 ふと足が向いたのは、拙著『本屋の新井』が文庫化されたからかもしれない。単行本が出たのは3年前、ちょうど神保町にいた頃だ。今とは働き方も本の読み方も違う。コロナが大流行したり、レジ袋が有料化したりと、世の中の変化もめまぐるしい。しかし文庫化のタイミングで書き直したいところはほとんどなく、2つ3つ付け加えようと思っていた書き下ろしも、短いあとがきがひとつで十分だった。本屋の仕事に対する情熱は、変わらずにある。
 御茶ノ水駅から長い坂を下った。毎朝通ったスタバはなくなっていて、たくさんの本を読んだ古瀬戸珈琲はコロナの影響で休業していた。当時あまり入ることのなかった神田伯剌西爾で、ケーキセットを注文する。上司が休憩時間や打ち合わせによく利用していたから、遠慮していたのだ。しかしその上司もまた、私がいなくなってしばらく後、退職したと風の噂で聞いた。ここで会うことはもう、ない。
 神田ブレンドと自家製レアチーズケーキの間には、白い本がある。ここへ来る前に読み終えた、上白石萌音さんのエッセイ集『いろいろ』だ。家にテレビがない私は、彼女のことをほとんど知らないと言ってよかった。しかしその本の担当編集者S氏は、私の連載の担当者でもあり、その仕事ぶりを心から信頼している。だから興味が湧いたのだ。本はひとりでは作れないものだから。
 短いエッセイはとても自然で、おそらく大きな手直しは入っていないと思う。ただ上白石萌音という、私とは別の仕事に夢中になっている人が、いろんなことを考え、いろんな人と関わり、この世界に生きている。それを文章で知っていくことが、なんだか無性にうれしいのだ。上白石さんは少し特殊な仕事をしているけれど、それが理由でエッセイが面白いわけではない。究極を言ってしまえば、上白石さんの運命を変えた、あの鹿児島でのオーディションで箸にも棒にも引っかからなくとも、彼女にはまた別の人生があったはずであり、私はそれも読みたいと思った。
「終わる」というエッセイで、彼女は千穐楽の日に感じる寂しさについて綴っている。一緒に仕事をしたキャストやスタッフが、また全員揃うことはもうないからだ。私は職場の送別会を思い出していた。異動や退職をするのが仲間でも、上司でも、自分でも、それに行けば本当に終わってしまうということが嫌すぎて、「最後の挨拶」とやらが苦手すぎて、毎回仮病を使ってでも逃げ出したいほどだった。上白石さんも「最後の挨拶」を三日も前から考えていたというのに、その時になれば言葉は出ずに、涙ばかりが出てしまうという。ああ同じだなと思った。だが彼女は、そういう情けない自分から目を反らさなかった。その先を書いて受け入れる強さと、健やかさがあるのだ。
 彼女のエッセイを読んで、私の心は動き出した。手先でうまくなって誤魔化すこともできるが、一番大事なのは、自分を見つめて受け入れることだ。
 そうか、神保町に来ることができたのは、彼女のおかげだったか。

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プロフィール
新井見枝香(あらい・みえか)

書店員・エッセイスト。1980年、東京都生まれ。書店員歴10年。現在は東京・日比谷の「HMV&BOOKS HIBIYA COTTAGE」で本を売る。芥川賞・直木賞の同日に、独自の文学賞「新井賞」を発表。著書に『探してるものはそう遠くはないのかもしれない』『この世界は思ってたほどうまくいかないみたいだ』(秀和システム)、『本屋の新井』(講談社)。
*新井見枝香さんのTwitterはこちら
*HMV & BOOKS HIBIYA COTTAGEのHPはこちら

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