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「らんまん」主人公のモデルとなった牧野富太郎は、何に生涯を捧げたのか?…NHK出版新書『牧野富太郎の植物学』発売!

2023年度前期の連続テレビ小説「らんまん」の放送が4月から始まります。主人公のモデルは「日本の植物学の父」と呼ばれる牧野富太郎。貧窮の中にあって独学で植物分類学を修め、アカデミズムと対峙しつつも、偉大な業績を残し、植物知識の普及に尽力したとされる人物です。
 しかし、彼の研究者としての業績は、破天荒な人物像や、彼を取り巻く人間ドラマに比べて、これまであまり顧みられてきませんでした。3月10日発売のNHK出版新書『牧野富太郎の博物学』は、「らんまん」で植物監修を務める植物学者の田中伸幸さんが、「天才植物学者」の足跡を追いながら、その真の業績を詳述する一冊です。今回は発売を記念して、そのなかから抜粋してご紹介します。


牧野が生まれた時代

 文久二年(一八六二)四月二四日、土佐佐川村(現在の高知県佐川町)の商家、岸屋に息子牧野成太郎が生まれた。六歳のころ、富太郎と改名し、牧野富太郎となる。
 佐川町は、酒蔵の町である。高知市から、いの町、日高村を通り、松山街道を西へ進み、トンネルを抜けると、右手に「維新の志士田中光顕みつ あき、植物学者牧野富太郎出身地」という看板が目に飛び込んでくる。
 幼少のころに父と母、祖父を亡くした牧野は、金銭的には裕福な一方で孤独な幼少期を送っていた。生家の裏山に金峰きんぷ神社という神社があり、急峻な石段を上がった境内や、周辺の野山に生える植物を相手にするうちに、植物が好きになったと自著している。
 一二歳で佐川の名教館で学ぶが、名教館は学制改革で佐川小学校となり、理由はなく嫌気がさし、自主退学する。のちにその理由について、商家の跡取りということもあって、学問で身を立てようということなどは一向に考えていなかったからだと述べている。牧野富太郎の植物学の知識は、後述する高知師範学校の永沼小一郎こいちろうの影響によるところが大きいと自ら記している。
 牧野が生まれた時代はすでにツュンベルクの『日本植物誌』が半世紀以上前に出版されており、シーボルトの『日本植物誌』は刊行済みで、北米との比較論を展開したエイサ・グレイの論文も世に出ている。一方で、東南アジア島嶼地域の熱帯植物の研究で知られるオランダの植物学者フリードリッヒ・アントン・ヴィルヘルム・ミクェルは、熱帯アジアとの比較の視点に立った日本の亜熱帯要素の植物の研究で業績を挙げていた。
 ミクェルは、『ライデン植物標本館紀要』に、「フロラエ・ヤポニカエ」と題するシリーズ論文を発表し、多数の日本産植物に学名をつけた。ミクェルが日本の植物多数に学名をつけたのは、牧野富太郎が生まれて五年ほどしか経っていないころだった。ミクェルをはじめ、多くの海外の研究者たちは、日本の植物の種類は豊富で、多くが日本独自の種類であることに興味を抱いていただろう。
 しかし、種子植物の正確な分類は、花を見ないとわからない。果実だけでもかなり核心に迫れるが、場合によっては属までしか解明できない。世の中には、花序かじょ(花のついている枝)以外は他種と寸分違わず、まさに花序だけが異なる種も存在する。種子植物にとって、花はアイデンティティをもつ顔であり、顔を見ないとどこの誰かは知るすべもない。
 したがって、分類学の資料となる標本は、必ず花か果実がついているものでなければならない。これは分類学に関わる研究者の鉄則でもある。しかも、植物の花の咲く時期は、それぞれの植物の種類によって異なる。今も昔もその地域の植物を詳細に調べるのは、一時的に訪れて調査を行う外国人より、現地に住む研究者のほうが遥はるかに有利である。
 この点で、日本のフロラの真の解明は、日本人の手によって研究が始まるとともに一気に進展するに違いない、そういう時代であった。

西洋人による日本の植物の調査

 牧野富太郎が生まれたころ、もう一人、忘れてはならない学者が、日本で精力的な標本の収集を行っていた。
 カール・ヨハン・マキシモヴィッチ。ロシアのサンクトペテルブルクにある帝立植物標本館、現在のロシア科学アカデミーのコマロフ植物研究所の研究者で、牧野富太郎がのちに師と仰ぐ東アジアの植物分類研究の権威だった。
 マキシモヴィッチは、三年間にわたるアムール地方の植物相の調査を行い、その結果を『アムール地方植物誌予報(プリミタエ・フロラエ・アムレンシス)』として出版した。同書はのちに日本を含む東アジア温帯地域の植物の研究に欠かせない基礎文献となった。この一連の研究で、ロシア科学アカデミーで優れた業績を挙げた科学者に贈られるデミドフ賞を授与され、その賞金で日本の植物調査を実施したとされる。
 当初は、満州を調査しようと考えていたが、日本が開国したことを知り、一八六〇年から四年間にわたり、日本を調査し多数の標本を採集した。長く鎖国をしていた国は、異国の文化に好奇心旺盛な西欧人にとっては、この上なく魅力的だったに違いない。一八六一年には函館、横浜、翌年には長崎と、牧野が生まれた年は、マキシモヴィッチが盛んに日本で植物調査を行っていたことになる。
 函館滞在時、彼は世話係として現在の岩手県出身の須川長之助という男を雇う。マキシモヴィッチの信頼を得た須川は、植物調査の助手、つまり標本のコレクターとしてマキシモヴィッチのために日本全国で標本の収集を行った。マキシモヴィッチもまた、日本産植物の多くに新種として学名をつけた学者だった。マキシモヴィッチが学名をつけた植物には、オニグルミ、イタヤカエデやエンレイソウなどがある。
 牧野富太郎が幼少期を過ごした時代は、マキシモヴィッチだけではなく、フランスのサヴァチェをはじめとして、多くの西洋人が植物調査に訪れていた。ある意味日本の植物が盛んに研究されていたが、それは日本人によってではなく、西洋人によってであった。そんな時代に生まれたのが牧野だったといえる。


続きは、『牧野富太郎の植物学』でお楽しみください。

プロフィール
田中伸幸(たなか・のぶゆき)

植物学者。1971年、東京都生まれ。国立科学博物館・植物研究部陸上植物研究グループ長。東京都立大学大学院理学系研究科博士課程修了後、2001年から高知県立牧野植物園研究・教育普及部研究員、標本室長、高知大学理学部客員准教授などを経て、2015年より国立科学博物館勤務。

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