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七年ぶりの海外旅行へ――料理と食を通して日常を考察するエッセイ「とりあえずお湯わかせ」柚木麻子

『ランチのアッコちゃん』『BUTTER』『マジカルグランマ』など、数々のヒット作でおなじみの小説家、柚木麻子さん。出産以降初、久しぶりの海外旅行での最高の出会いと、柚木さんが考えたこととは?
※当記事は連載の第29回です。最初から読む方はこちらです。


#29 無限の時間を

 以前、この連載で、いずれ必ずやってくるだろう死の恐怖に突然とりつかれ、刻一刻と過ぎていく時間をつなぎとめるために、日記を書き始めた、とつづったはずだ(#14死の恐怖)。私は昔、大病して昏睡状態を経験したことがあるせいで、異様にその種類が怖い。あれから半年経った。案の定、日記はさぼりがちになり、書かなくなり、今はもうどこにあるかもわからない。しかし、死の話、再来である。
 きっかけは、むしろ最高の出会いに由来する。この間、七年ぶりの海外旅行で、ドイツに出かけた。拙作を扱ってくれたベルリンの出版社を訪問する予定に、取材、鉄道探訪や観光をくっつけて、家族も引き連れてのにぎやかな旅となった。この連載を一回目から読んでいる方だったら「そうか、出産後のバタバタやコロナ禍を経て、ようやく……」と感無量になってもらえるはずだ。
 コロナ禍にクラブハウス(みんな、覚えていますか)で出会った、ドイツ在住の女性、Iさんに現地ガイドをしてもらった。私はそこそこパワフルだと言われる方だが、Iさんは指先までエネルギーが満ち満ちしている。こうして日本から来る人をもてなしながら仕事もこなし、社会への問題意識が強く、行動する勇気もある。なおかつ生活を楽しむ意欲にあふれ、美味しいご飯を作り、パーティーや音楽も大好きだ。語学が堪能で、人との垣根がない。もちろんドイツの平均的就業時間が短く、給与も高いという、日本との決定的な差はある。でも、I さんといると、どこにでも行けるし、なんでも叶う気がしてくる。私が感嘆していると、彼女はなにげなくこう言った。
「もう、いつ死んでもいいな、と思いながら、生きているからかなあ」
 あの日からなんだか謎がとけたような気がしている。死とまっすぐ向き合うことで、毎日はむしろ充実するのではないか、という発見だ。来週死ぬかもと思いながら生きている人が時間を大切に生きるのは当たり前だ。
 ちなみに最近身近な人の死や大病に直面した方、ないし、今、体調が悪い方、自分の残り時間に敏感になっている方は、「なにいってんだ、こいつ」と思うに違いないから、ここから先は飛ばして、結末だけ読んでほしい。
 私に集中力がなく、なにも続かず、いつも心ここにあらずで、部屋が散らかっていて、すぐになんでもやめてしまうのは、四十代になってもなお死と向き合う勇気がゼロだからなのではないか。よくよく考えてみると、昔から丁寧な暮らしやミニマリストの生活がなんとなく怖いのは、すっきりと物がない部屋に、濃厚に死の気配が漂っているからなのである。全員が全員そうだとは言わないが、いらないものを瞬時の判断で切り捨てたり、季節に敏感で花を生けたりできる人は、一瞬一瞬を大切に生きていて、時間が有限だと知っているからではないか。
 そうだ、いつかは死ぬ、友達も家族も、命あるものはみんな――、と言い聞かせ、夏空に向かって目を閉じてみる。子どもと遊ぶビニールプール。水しぶき、夕立、とけかけのアイスキャンディ、蝉の声――。あと何回、こんな時間が人生に訪れるのだろう、そう思うと、すべてが美しい――。
 いやいやいや、無理無理無理。
 一瞬一瞬を目に焼き付けるとか無理。だったらスマホを見ていたい。時間泥棒? ああ、泥棒されている方が時間が無限だと感じられるから、むしろそっちがありがたい(本当にダメ)。残り時間に敏感になって、いちいちエモくなってたら、心身がもたない。私はそういう最弱人間。
 いや、一概にダメとは言えないのかもしれないと、ちょっとだけ心を静めて、考え直してみた。このダメさに向き合わないと、私の死生観は誰かを手本にした受験勉強になってしまう。私は弱く、死が怖い。死を意識しながら生きることがどうしても難しい。
 そこで今、立てている計画がある。なるべく早く、できたら明日くらいから宇野千代とか黒柳徹子とか平野レミを参考にした、いつも元気でハイテンション、よくよく耳を傾けていると上品で博識、それでいて個性的なカラフルなファッションが似合う、アイコニックで年齢不詳な女性になる。そこからスタートして健康に注意して、できるだけ長生きする。すると周りはこう誤解するのではないか、「あの人ってずっと元気だよね」「半世紀前くらいからあのままじゃない?」「死なない人ってもしかするといるのかもしれないねー」。そうしたら、私もだんだんとそんな気になるかもしれない。ずっと生きるのは無理だ。でも、早めにキャラクターを確立して、私の周辺だけ時空をねじまげることはできるのではないか。私の性格だとギリギリ可能だ。
 手始めに美容院で特徴的な髪型を探しに行こうと思う。

次回の更新予定は9月20日(水)です。

題字・イラスト:朝野ペコ

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講演開催! 「柚木麻子さんが語る、林芙美子が描く女性たち」
9月24日に、NHK文化センター大阪教室での柚木さんの講演が決定しました。今回のテーマは、林芙美子。かねてよりお芙美さんファンを公言し、『100分de名著』の7月期放送回、「放浪記」の講師を務めた、柚木さん。林芙美子の人物や作品の魅力を、柚木さんならではの視点で、たっぷりお話しいただきます。
■教室受講
https://www.nhk-cul.co.jp/programs/program_1275801.html
■オンライン受講
https://www.nhk-cul.co.jp/programs/program_1276087.html

当サイトでの連載を含む、柚木麻子さんのエッセイが発売中!
はじめての子育て、自粛生活、政治不信にフェミニズム──コロナ前からコロナ禍の4年間、育児や食を通して感じた社会の理不尽さと分断、それを乗り越えて世の中を変えるための女性同士の連帯を書き綴った、柚木さん初の日記エッセイが好評発売中です!

プロフィール
柚木麻子(ゆずき・あさこ)

1981年、東京都生まれ。2008年「フォーゲットミー、ノットブルー」でオール讀物新人賞を受賞し、2010年に同作を含む『終点のあの子』でデビュー。 2015年『ナイルパーチの女子会』で山本周五郎賞を受賞。『ランチのアッコちゃん』『伊藤くんA to E』『BUTTER』『らんたん』など著書多数。最新書き下ろし長編『オール・ノット』(講談社)が好評発売中。

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