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『昭和ブギウギ 笠置シヅ子と服部良一のリズム音曲』輪島裕介さん×『落語に花咲く仏教』釈 徹宗さん対談―”大阪音曲巡礼”【後編】

近世以来、庶民の娯楽や祈りのバックボーンを支えてきた大阪の音曲。「地」に根づいた音楽・笑い・語りの歴史と可能性について、『昭和ブギウギ 笠置シヅ子と服部良一のリズム音曲』を上梓した輪島裕介さんと、上方の芸能にも詳しい宗教学者の釈徹宗さんが縦横無尽に語りました。後編も、西洋と日本の音楽観の違いから始まり、日本のアイドルのあり方の特殊性や、後年の笠置シヅ子とロックスターのエピソード、大阪人のコミュニケーションまで話題は広がって……。


■街に花咲く音楽

輪島 釈先生が『落語に花咲く仏教』の中で、日本の音曲は三層構造になっていると書かれていました。非常にメロディアスに音楽的に歌う部分と、言葉で語る部分と、最後の最後にある種の社交があって事が収まると。これは、なるほどと思いました。
 いっぽう、西洋的な音楽は、ヨーロッパのキリスト教的なものの中から出てきたものを、何とかして宗教的なものから切断し、「芸術」という新しい世俗宗教にしたという経緯があります。これはいろいろな人が言っているのですが、芸術というものは、神が世界の中心、原理ではなくなった時代において、ある種の超越性、崇高さみたいなものを、人間の生み出すものの中に見出していく過程で生まれたと。神が失われた世俗的な、資本主義的な社会の中で、神の代わりに創造主体としての人間という概念が発明されて、作者や芸術作品は、その超越性を担保するための装置として呼び出されてきたという議論があります。
 そういう考え方もあってもいいとは思うのですが、それはキリスト教世界の中だけの話ではないかという気もするのです。
 なるほど。そのキリスト教世界で、最初は神に向けて、神に捧げるために音楽をつくっていたのが、人間に向けてつくり始めるというようなことになるわけですか。
輪島 そういうことです。もともと、神に向かって、儀式として演奏されていたものが、コンサートホールという場に入っていくと、それ自体を神として崇めるかのように鑑賞するというのはちょっと不自然ではないですか、ということなのです。宗教的な儀礼の中で、一連のいろいろな式典があったり、神父や牧師の話があったり、信徒が詩や聖書の一節を唱和したりするパートがある中で、その一部としてオルガンが演奏されたり、神を称える曲を歌ったりしたわけではないですか。それだけを取り出してコンサートホールの舞台に乗せても、それこそ、さっきのお能の話ではないですが、おもしろくないのではないかと素朴に思ってしまうのです。ある宗教的な文脈の中で機能していたものを、一部の音楽的なパートを切り取って別のところに置き直して、それ自体を鑑賞しましょうといわれても、やはり「おもろないちゃうん?」と思ってしまいますね。
 そこからさらに一歩進めて、おもしろいものへと発達させていくということなのでしょうか。
輪島 おもしろいものは、別の場所に行くのです、音楽の場合。
すごく大ざっぱに言うと、要するに、コンサートホールというのは、世俗化した神なき世界の芸術信仰の場として純粋化していき、一種、苦行みたいになっていくわけです。そうであるにもかかわらず、それを理解できる人が立派な市民だ、というような妙な規範があります。
 それと同じ時期、19世紀の半ばあたりに、ヨーロッパのいろいろな都市で、いろいろな形態の娯楽的な音楽の場が生まれて、商業的に自立していくのです。パリのキャバレーや、ロンドンのミュージックホール、ウィーンだとダンスホールというものが出てくる。ウィンナーワルツやチェコ発祥のポルカは、ハプスブルク帝国の周辺からやって来た農民たちが地元で踊っていたダンスを都市部に持ち込んだものです。安来節が大阪や東京の寄席に入ってくる、みたいなことです。
 アメリカでも、ミンストレル・ショーやヴォードヴィルなどの娯楽的な音楽の場と、芸術宗教の場としてのコンサートホール、つまり楽しみのための音楽の場と真面目な音楽の場が分離していきます。僕が扱っているのは、もちろん遊びのほうのものですが。
 『昭和ブギウギ』では、服部良一の活躍とともに日本の流行音楽の変遷を書いておられるので、とても理解しやすかったのです。戦前のジャズから、ブルースになり、スイングが出てきて、戦後になってブギが出てきてという流れでしたね。そして、マンボに行くと。
輪島 そうです。流行という現象自体が現われてきて、意味をもつようになります。
 真面目な音楽の世界では、いわゆるクラシックという言葉が指し示しているように、古典的な価値を求めます。それに対して、娯楽的な音楽は常にもの珍しさや新しさを求めるところがある。もちろん、親しみやすさも大切なので、その両方を求めていきます。

■「乞食節」と蔑まれた流行歌

 でも、当時流行った歌はひどい批判を受けていますよね。「乞食節」とか言われて。
輪島 戦前にフランス文学者の辰野ゆたかが流行歌全般をそう呼んでいるのですが、敗戦直後にそれを引いて徳川夢声が頻繁に使うことで批判の紋切り型になりました。もっとも、辰野は笠置シヅ子とエノケンの『お染久松』は評価していますが。
 笠置シヅ子さんは、戦前にはスウィングの女王、戦後にはブギの女王と呼ばれましたが、輪島先生は、笠置シヅ子の本質は変わっていないと考えておられるわけですね。世の中の動きが変わって、見方が変わったにすぎないと。でも、どうして流行歌は、そんなに下に見られていたんですか?
輪島 流行歌を乞食節として蔑んでいた人たちには、「流行歌は西洋的な歌曲のようなふりをしているけれど、フタを開けてみれば、浪花節や義太夫と同じぐらい下品ではないか」という含意があります。つまり、そもそもお座敷に由来するような庶民的な芸能は西洋的な音楽よりも下だというのが、当時の一部のインテリたちの、自明の前提になっていたのです。
 そういうことか、なるほど。浄瑠璃や浪花節は本当に差別された芸能ですからね。そういったものをすごく下に見ているから、流行歌といっても、ひと皮むいたら、歌舞音曲程度のものだという、そういう見方ですね。
輪島 流行歌といっても、音楽の皮を被った音曲、洋楽の皮を被った浪花節に過ぎないと言っているわけです。

■メロディーとハーモニーとリズムをめぐって

 ところで服部良一は、慣れ親しんだ日本的な音曲をベースに、西洋の音楽を乗せるということをかなり意図的に狙っていたのですか?
輪島 どうでしょうね。どこまで意図していたかは、ちょっとわからないのですが、西洋的なものが絶対的に偉いのだとは思っていなかったんじゃないでしょうか。
 これは僕の仮説なのですが、服部良一は、メロディーというのはかなりの程度民族固有のもので、ハーモニーというのは西洋の近代で確立された普遍的なものであると考えていたのではないか。そしてリズムは、時代ごとにどんどん変わっていくし、より複雑になっていくという考え方を持っていたようなふしがあるのです。
 メロディーとハーモニーとリズムですか。
輪島 そもそも、その3つの構成要素で音楽をとらえる考え方自体が、西洋的だとも言えますが。西洋音楽の形式原理の中ではハーモニーが突出して重視されているのですが、別にハーモニーがなくても音楽は成り立つわけです。なんならメロディーがなくても成り立つ。
 リズムさえあればと。
輪島 はい。僕はリズムと声があればもう十分だというくらいに考えているので。
 ハーモニーというのは、非常に西洋的なものが細かく理論化されて世界じゅうに広まったものなのです。服部良一は、オーケストラの指揮をしていた亡命ウクライナ人に師事して、和声の理論を演奏のためのスキルとして身に付けているので、自分が表現するうえで理論は汎用的だと考えていたでしょうね。それを使って、民族固有のメロディーを表現する。そのうえで、リズムは常に新しいものを取り入れていく。そういう三層構造で発想していたのではないかと思います。
 僕は、この本を読んで、「エイトビート」を生まれて初めて理解できました。それまではいくら聞いてもわからなかったのです。エイトビートというのは、8拍という意味でしょう。8拍で音楽が成り立つということが、よくわからなかった。でも、1小節の中に8回という意味なのですよね。
輪島 そうです。西洋の音楽で、4分の4拍子の1、2、3、4という4つの音符をタタ・タタ・タタ・タタと分割するということなのです。エイトビートという表現の妥当性はともかく、服部は「1小節に8回」のリズムをブギウギの重要な特徴だととらえていました。

■「未熟さ」の系譜から遠く離れた笠置シヅ子

 それにしても、笠置シヅ子さんは若くして連れ合いを亡くして、一人で子どもを育てなければいけないという、不幸のどん底の最中に「東京ブギウギ」を歌うのですね。すごくたくましい人ですね。
輪島 あるいは破天荒な感じというか。当時の流行歌歌手のイメージからすると、相当異物感があったのではないかと思います。
 お連れ合いとは籍が入っていないので、お嬢さんはいまで言う非嫡出子ということになりますね。
輪島 そういうこともあって、当時、パンパンと呼ばれたような夜の世界で生きる女性たちが……。
 ものすごく応援するのですよね。
輪島 同性からの絶大な支持があったということに加えて、「東京ブギウギ」を吹き込んだ時点で、あまり若くはなかったということも、けっこう重要だと思うのです。
 日本の芸能、大衆文化を考えるとき、若さゆえの未熟さというものが、アイドルの特徴として強調されがちです。宝塚など少女歌劇もそうですし、いま、問題になってい元ジャニーズもそう。ある種の未熟さとか、若さというものを珍重するものと、笠置シヅ子はかなり逆に向いていますよね。
 それにしても、日本の、未熟さを応援して一緒に成長するのが好きだというのは、どういう特性なのでしょうかね。
 たとえば、韓国のアイドルは、厳しいオーディションで選びぬいて、歌も踊りもすでに高度な者だけを集めてグループでデビューさせたりしますが、それが明らかに世界に通用しているわけです。
 ところが、日本の場合は、元ジャニーズにしても、AKBにしても、宝塚にしても、未熟な、ほとんど子どものときから応援して、その人がだんだん成長して売れていくのを喜ぶというようなところがあるでしょう。これはどうなのでしょうか。日本特有のものでしょうか。
輪島 どうなのでしょうかね。それこそ、お稚児さんなどの文化と関係があるのかどうか、むしろ釈先生にお伺いしたいです。
 うーん。宗教学でいうと、アイドラトリー(idolatry)、偶像崇拝というのがあります。アイドルとは偶像という意味でしょう。日本の場合は未成熟なアイドルを神であるかのように崇めるということがあるのかもしれません。
海洋民のあいだには、神は子どもの姿で現われるという信仰が強くあります。海上安全の守護神を祀った住吉大社にも一寸法師の伝説があるでしょう。あれは幼形の子ども神、小さ神なのです。
 海洋民系ではありませんが、熊野街道にも、九十九王子といわれる神社群がありますね。「藤白王子」とか「切目王子」とか、「○○王子」と名前がついているのですが、王子というのは、子どもの神様という意味なのです。
そんなふうに、子どもを神として信仰するということと、未熟なものを喜ぶということがどこかでつながっているんでしょうか、どうでしょう?
輪島 本書でも引用しているのですが、私の友人で、周東美材しゅうとうよしきさんという研究者が『未熟さの系譜』という本を書いていて、「宝塚からジャニーズまで」という副題が付いています。いまは、どちらも大揺れですが。
 周東さんはその本の中で、未熟さというのは、大人の男性である西洋的なものを模倣する、少女としての近代日本になぞらえられるというのです。お手本である西洋を模倣しようとするベクトルが、日本の近代化の過程ではたらいていると。
 先ほどの「乞食節」批判の系譜をみても、日本は本当に駄目で、アメリカが最高というような価値観がずっと続いていたのが、よくわかりますね。
 あとは、輪島先生が書かれていた、未熟な少女や少年をアイドルとして応援することは、労働からも生殖からも切り離された存在であるということが大きいのではないでしょうか。
輪島 そうですね。僕は、宝塚やジャニーズについては、周東さんの分析はすごく当てはまると思うのですが、一方で、娘義太夫みたいなものも近世からあったわけで。
 また、美空ひばりなどは、まったく未熟ではないわけです。子どものときにデビューしたけれど、すでに異常なほどに歌がうまい。完成されている。
釈 だから、当時、気色が悪いという評価もあったそうですね。

■総合エンターテナーとしての笠置シヅ子と美空ひばり

 『昭和ブギウギ』には出てきませんが、笠置シヅ子から美空ひばりへの移行について、ぜひ教えていただきたいのですが。
輪島 僕もそれについては考えがまとまっていなくて、論じられなかったところです。笠置シヅ子についての本を書いた立場から言うと、美空ひばりは単に笠置シヅ子の歌を真似していたという以上に、笠置が持っていた特殊性みたいなものを受け継ぐことによって、あれだけ成功したのではないかという気がしています。
 というのは、美空ひばりのスターとしての地位は、それまでの業界慣習をかなり打ち破るものだったからです。当時の俳優は、映画会社に所属していると、契約上、その会社の映画にしか出られませんでした。ところが、美空ひばりは、歌手としてはコロムビアレコード専属なのですが、ゲスト出演、カメオ出演といった名目で、当時存在していたほとんどの映画会社で主演級の仕事をしているのです。そして、舞台にも出る。そういう、実演と、映画や録音を股にかけて活動する例というのは、それまでの業界慣習ではあまりなかったのです。でも笠置シヅ子は、かなりそれをやっていた。舞台もやるし、映画もやるし、歌だけではなくて踊りもする、芝居もする。そういう万能選手的なエンタテイナーのあり方を、美空ひばりは受け継いでいる。
 歌だけではなく、演者としてのひばりのロールモデルは、やっぱり、笠置シヅ子ではないかと思うのです。本格的な役者でもなければ、レコードでしか歌わない歌手でもない。東海林太郎みたいに、棒立ちで歌う人とも全然違う。いろいろな扮装をして、いろいろな役柄をこなしながら、いろいろな種類の歌を歌う。
 美空ひばりは、笠置シヅ子よりもいろいろな種類の歌を歌えたというのは、彼女の秀でたところだとは思います。でも、いろいろな活動の場を股にかけ、総合的なエンタテインメントをやるという点では、笠置シヅ子は美空ひばりを先駆けていたのではないかと思います。
 僕らが子どものときは、笠置さんはテレビの歌番組(注・「家族そろって歌合戦」1966年から80年までTBS系列で放送)の審査員をなさっていて、コメントのおもしろい、いかにも大阪のおばちゃんやなあと思って見ていました。
 ある日テレビを観ていたら、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの宇崎竜童さんが出ていて、「今日は宇崎さんの憧れの人をお招きしております。どうぞ」と司会者が笠置シヅ子さんを呼び込んだのです。宇崎竜童さんは「本当に僕は、心から笠置さんを尊敬しているのです」と感激されていたのですが、司会者が「笠置さんは、宇崎さんのブギを聞いて、どうですか」と訊いたら、笠置さんが「わてらと全然ちゃいまっからな」とか言って、台無しにしていました(会場爆笑)。
輪島 ええ?それ、ご覧になって!?
 ええ、観ていました。子ども心に宇崎さんが気の毒だなと。
輪島 そうですね、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドは「賣物ブギ」という、「買物ブギー」をパロディにしたような歌を歌っていましたね。もちろん、ブギウギという言葉自体も、笠置シヅ子のブギウギを参照しているところはあるのですが。ああ、そういうやり取りが実際にあったのですね。
 はい、実際にテレビでやっておりました。以上、ミニ情報を提供させていただきました(笑)。

■意味よりも重要なものがある

 笠置シヅ子と服部良一の音楽人生について本を書かれた立場として、今後のテレビドラマ「ブギウギ」のどんなところに注目していいますか?「こうなったらおもしろいだろうな」「ここはちゃんと史実に基づいて描くのかな?」とか、ありませんか。
輪島 一番懸念しているのは、服部良一をちゃんと大阪の人として描くのかどうかということです。
 服部さんを演じるのは、草彅剛さんですね。
輪島 第1回に一瞬だけ出てきましたね。笠置シヅ子が日劇で「東京ブギウギ」を歌うところからこのドラマは始まるんですが、楽屋に笠置を呼びに来た服部が、完全に標準語でしゃべってたんですよ。
 駄目じゃないですか!この本が成り立たなくなりますね。
輪島 そうなのです。「どうしてくれる」という話で。
 笠置さんと服部さんが大阪ネイティブということが、音楽に決定的な独自性を与えているという理論で展開されているのに。
輪島 そうなんです。大阪的なキャラクターの笠置シヅ子に、大阪的な音楽的表現を与えたのが服部良一なので。
 その嚆矢が「ラッパと娘」ですか。
 この本にそれをまず聴けと、書いてあるのです、「話はそれからだ」と。僕は、そんなふうに書いてあったら絶対に意地でも聴かないほうなのですが、さすがに対談を控えているので、聴いてみました。
 そうしたら、もう、リズムに乗ってラッパと声のすごい掛け合いですよ。本当におもしろい音楽があるんだなと思いました。
 輪島先生は「買物ブギー」も絶賛されていますが、これは音曲の阿呆陀羅経あほだらきょうですね。コンコン、コンコン、コンコン、というあのリズムで言葉遊びをする。
「ラッパと娘」も「買い物ブギー」も、とにかく言葉のやり取りとか、リズム、流れ重視で、はっきり言って言葉の内容はどっちでもいいという。これは、僕はある種、大阪の会話やコミュニケーションの特徴だと思うのです。
 「探偵! ナイトスクープ」という番組があるでしょう?昔、こんなことをやっていたのです。
 名古屋か東京か、どこかからの女性からの相談で、「私の夫は大阪生まれ大阪育ちです。いまはこちらに住んでいるけれど、ときどき夫の実家に行くのです」と。大阪の実家に行ったら、とにかく、夫のお父さんとお母さんがいい加減すぎるのが納得できないのだと依頼の手紙に書いてあるのです。
 相談者は相撲好きですが、朝青龍は嫌いだというのです。「朝青龍、あんな品がないのは駄目だと思います」と女性が言うと、実家のお父さんが、「そのとおりや、勝ったらええというもんちゃう」とか言うのだと。そこに女性の夫が、「いや、相撲は勝ってなんぼやろう」とツッコんだ。そうするとお父さんは「せやな、勝ってなんぼやな」と言うらしい。あとからわかったことですが、そのお父さんは朝青龍を知らなかったらしいのだと。
 今度は夫のお母さんに、「私、モンブラン嫌いなんです」と女性が言った。「あれ、おいしくないでしょう? 見かけも焼きそばみたいだし」と言ったら、お母さんが「あれは、甘い焼きそばやんな」と。そこに夫が「そうか!? 俺はクリ、好きやけどな」と反論すると、お母さんが「クリは偉いな。イガで自分を守っとる」とか言うらしいのです。これもあとからわかったことですが、そのお母さんはモンブランを知らなかったらしいと。
 それで「大阪人は、いったいどうなっているのだ?」という相談で。ぜひ調べてくれというので、探偵が大阪の町を歩いていろいろな人とコミュニケーションを取るのですが、それがことごとくええ加減で。やり取りはうまいことするのですが、内容はまったくのデタラメなんです。
 僕はそれを観たとき冷や汗をかきました。子どものときから、そんな人ばっかりの中で大きくなって、いまも回りはそんな人ばっかりだし、自分にもそんなところがすごくあるので……。
 大事なのは、リズムに乗っていくこと。リズムに乗っていくことがいちばんで、内容はあと回し。大阪人には、意味に先立つものがある、というようなところがあります。
輪島 コミュニケーションですね。
 そうです。「買物ブギー」にしても「ラッパと娘」にしても、この2人の作品にはそういうところがありますでしょう。
輪島 言葉のやり取りもあるし。楽器と声がうまいことやり取りしている。それはやっぱり、作曲家としての服部良一の能力でもありますね。歌う人だけでは、多分、それを成り立たせられないので。
 大阪帰化申請中の身としては、適当な受け答えをもっと磨かないといけないということでお開きにしましょう。あ、でも、今日お話したことは全部本当の真実ですよ。


〔了〕

※この対談は『昭和ブギウギ 笠置シヅ子と服部良一のリズム音曲』(NHK出版新書)の刊行を祈念して、2023年10月15日にジュンク堂書店大阪本店で行われたトークイベントのもようを再構成したものです。

【プロフィール】
輪島裕介(わじま・ゆうすけ)
大阪大学大学院人文学研究科音楽学研究室教授。1974年石川県生まれ。専門はポピュラー音楽研究、近現代音曲史、アフロ・ブラジル音楽研究、非西洋地域における音楽の近代化・西洋化に関する批判的研究。著書に『踊る昭和歌謡 リズムからみる大衆音楽史』(NHK出版新書)など。『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』(光文社新書)で第33回サントリー学芸賞、国際ポピュラー音楽学会賞を受賞。音楽史観の90度転回を目指し、危険思想を愉快に語る音楽学者。

釈撤宗(しゃく・てっしゅう)
相愛大学学長。浄土真宗本願寺派如来寺住職、宗教学者、NPO法人リライフ代表。1961年大阪府生まれ。専門は宗教思想。著書に『天才 富永仲基 独創の町人学者』(新潮新書)、『歎異抄 救いのことば』(文春新書)、『お経で読む仏教』(NHK出版 学びのきほん)など。『落語に花咲く仏教 宗教と芸能は共振する』(朝日選書)で第5回河合隼雄学芸賞を受賞。認知症の人たちが暮らすグループホーム「むつみ庵」や、さまざまな学びと交流の場「練心庵」を主宰するなど、実践を重んじ自由に仏法を語るメンターとして注目を集める僧侶。

【関連書籍】
『落語に花咲く仏教 宗教と芸能は共振する』
(朝日選書)
「寿限無」などおなじみの古典落語に込められた意味から説き起こし、浪曲や音曲漫才など大衆芸能への愛と、深く多様な比較宗教学的視点が絶妙にクロスオーバーする快作。『昭和ブギウギ』で書かれた芸能にも言及があり合わせて読むとさらに日本のアートへの理解が深まります。第5回河合隼雄学芸賞受賞作。

『昭和ブギウギ 笠置シヅ子と服部良一のリズム音曲』(NHK出版新書)
音楽史を塗り変えたコンビがどれだけすごいのか!
ポピュラー音楽史研究の第一人者が、直筆の楽譜草稿ほか、親族が保管する貴重資料も渉猟し、笠置・服部コンビが近代芸能史に遺した業績を書き尽くしました。レコード・セールス中心の音楽批評通念に異議を申し立てる意欲作。

★11月17日(金)20時~
輪島裕介さんのオンラインイベントが開催されます。
『昭和ブギウギ』ホンマによういわん話@三省堂書店「めくる塾」

「読者参加型ラジオ」がコンセプト。本には書ききれなかった裏話や服部良一が遺した楽譜の草稿を見ながら作曲の過程を推理するなど「ブギウギ」ファンのみなさんと楽しく「ブギウギ」の世界を深掘りします!
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