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革命の表舞台に立ち続けたE. J=シィエスーー彼を通して見た、新しいフランス革命史

NHKブックスより『シィエスのフランス革命 「過激中道派」の誕生』が刊行になりました。
パンフレット『第三身分とは何か』で革命を引き起こし、ナポレオンを引き込んで革命に終止符を打つまで一貫して革命の表舞台に立ち続けたE. J=シィエス。彼の視点から激動の10年間を描き、大革命の全体像とその成果をとらえる一冊です。
今回は刊行を記念し、本書の一部を特別公開します。


従来のフランス革命観

 フランス革命史はこれまで、聖職者(第一身分)・貴族(第二身分)と、平民(第三身分)もしくは平民上層部の「ブルジョワジー」との間の、政治的・社会的闘争として捉えられることが多かった。その背景には、経済史を歴史学の中心に据えて、中世から近代への移行とは、封建制もしくは領主制と呼ばれる生産様式から資本主義と呼ばれる生産様式への移行であると捉える見方がある。すなわち、生産様式のこの移行に伴って、政治と社会での支配階級も貴族・領主から資本家(= ブルジョワジー)へと移行するが、その転換期には、古い時代の支配層だった貴族と新しい時代の支配層たるべきブルジョワジーが、政治と社会における覇権をめぐって争うことになる。それがフランス革命だと見るのである。
 この見方においては、さらに、ブルジョワジーの中で「商業ブルジョワジー」と「産業ブルジョワジー」が区別される。そして、商業ブルジョワジーは旧支配層と妥協しながら、変化を微温的で最小限の改革に留めようとするのに対して、産業ブルジョワジーは古いものを徹底的に排除して新しい社会を築こうとする、とされるのである。
 前者の、上からの改革の路線を代弁するのが「ジロンド派」であり、後者の下からの改革の路線を代弁するのが「山岳派」であるとされる。両者は一七九三-九四年の、いわゆる恐怖政治の時代に文字通り流血の戦いを繰り広げ、山岳派が勝利して徹底した近代化の路線がとられることになった。それ故にフランス革命は「典型的な市民革命」と評価される。以上の見解は「ブルジョワ革命論」と呼ばれる。

本書の立場

 フランス革命をこのように捉える見方は、理論的にすっきりしていてわかりやすい。また、フランス以外の国々を、「上からの改革で近代化した国」と「下からの改革で近代化した国」に類型化して相互比較するのに都合がよかったこともあって、日本においても第二次世界大戦後から一九七〇年代まで、学界で説得力を持っていた。
 しかしフランス革命史の実証的な研究が進むと、産業ブルジョワジーという概念に対応する社会階層が実質的には見つけられないなど、必ずしも史実にそぐわない点が目立つようになり、ブルジョワ革命論を支持する歴史研究者は次第に少なくなっていった。だからといって、ブルジョワ革命論に代わってフランス革命の全体像をすっきりと説明できるような理論が提唱されたわけでもない。場合によっては「我が国のフランス革命研究は、端的に言えば焦点の定まらない拡散状況」とも批判される状態の中で、個別の分野に関する様々な実証研究が積み上げられているのが現状だと言えるだろう。
 そのような学界の現状にあって、本書はフランス革命を、支配的身分もしくは支配的社会階層の変化・移行ではなく、アンシアン·レジーム期の絶対王政から、一七九一年の憲法における立憲君主政を経て共和政へと至る、政体もしくは国制の変化・移行として捉える。そうした視点に立った時に、一七八九年(見方によっては一七八七年)から一七九九年まで、約十年にわたっ
たフランス革命の全体像が見えてくると思われるからである。(ブルジョワ革命論ではフランス革命のクライマックスは一七九三-九四年の恐怖政治期とされ、それ以降は「革命がもたらした混乱を収拾し、決着をつける時期」として、実質的には無視されてしまう。)そして、全体の狂言回しとしてシィエスという人物に焦点を当てるのである。
 革命の全体を基本的に担ったのは「エリート」と呼ぶことのできる社会階層であった。彼らが目指したのは、人々がどのような身分ないし社会集団に属するかではなく、個人としてどのような能力を持つかということによって評価される社会や政治のあり方、すなわちメリトクラシーの実現であった。その点は、用語の解説を含めて第一章二節で説明することにし、ここではまずシィエスとは何者であったかを紹介しよう。

E=J・シィエスとは誰か

 本書の主人公であるエマニュエル= ジョゼフ・シィエス(一七四八│一八三六)は、一七八九年一月に刊行された政治パンフレット『第三身分とは何か』の著者として知られる。確かにこのパンフレットは、折からの全国三部会開催の知らせを受けて、新たな政治改革への期待に胸をふくらませていたフランス国民に、斬新な希望と展望を与えた。すぐにベストセラーとなり、著者のシィエスは一躍、有名人になって、首都パリの第三身分議員に選出されることになった。
 だが『第三身分とは何か』が有名になり過ぎたために、一七八九年から九九年までの十年間に及ぶフランス革命においてシィエスが果たした役割には、あまり関心が寄せられなかったように思われる。しかしこの十年間、シィエスはほとんど常に政治の第一線に位置していて、議会が進むべき方向を示唆し続けた。革命が激動の時代だったことを思えば、この点は注目に値する。
 そのシィエスも、一七九三年夏から翌九四年夏までの一年間は、政治の表舞台から姿を消す。これは「革命政府の時代」もしくは「山岳派独裁の時代」と呼ばれる時期で、対外戦争と国内の反革命反乱に対処するために、ロベスピエールを中心とする公安委員会が独裁的な権力を握り、反対派を次々とギロチンで処刑した、恐怖政治の時代である。
 従来は、すでに述べたように、フランス革命がもっとも急進化した時代として注目され、この時代があったからこそフランス革命が「典型的な市民革命」になったのだと考えられてきた。しかし、共和国の樹立という観点から見ればこの時代は、内外の戦争に対処するために臨時の一時的措置を取らざるを得なかったが故の停滞期であったと言えるだろう。
 この時期にシィエスが政治を離れたのは、彼自身が臆病な性格だったことにもよる。しかしそれ以上に、国家存続の危機にあって、変化する状況の中で次々と臨機応変の策で対応しなければならない時代においては、シィエスのようにある程度一定したプログラムを持って、一つずつ順を追って実行し
ていくタイプの政治家には出る幕がなかったことにもよるのである。恐怖政治の一年間のブランク自体が、逆に、彼がフランス革命においてどのような位置と役割を占めていたかを示唆していると言えよう。
 しかし、恐怖政治が終わるとシィエスはすぐに復帰して、一七九九年にナポレオン・ボナパルトが政治権力を握るまで、再び政治の第一線に立ち続けることになる。このシィエスに着目することで、革命の表面におけるドラマチックな動きに目を奪われることなく、フランス革命はどのような共和政を生み出したのか、あるいはどのような共和政しか生み出すことができなかったのかを、見極めることができるだろう。


続きは『シィエスのフランス革命 「過激中道派」の誕生』でお楽しみください。

山﨑耕一(やまざき・こういち)
元一橋大学教授。1950年、神奈川県生まれ。一橋大学社会学部卒、同大大学院社会学研究科博士課程を単位取得退学。博士(社会学)。
武蔵大学人文学部教授などを経て2000年から2014年まで一橋大学社会科学古典資料センター教授。2010年から国際フランス革命史委員会委員(2015―20年は委員長)。
著書に『啓蒙運動とフランス革命── 革命家バレールの誕生』(刀水書房)、『フランス革命──「共和国」の誕生』(刀水書房)、共編著に『比較革命史の新地平――イギリス革命・フランス革命・明治維新』、『フランス革命史の現在』(ともに山川出版社)、『東アジアから見たフランス革命』(風間書房)、訳書にR. セディヨ『フランス革命の代償』(草思社文庫)、A. ソブール『大革命前夜のフランス――経済と社会』(法政大学出版局)など。

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